2018年1月8日月曜日

コンビニ人間


コンビニ人間
村田沙耶香 芥川賞受賞作品

2018年正月の芥川賞読書会。第1作目。

コンビニで働く主人公、古谷は生来おかしい人間だった。
おかしいという定義は社会の基準から離れているという点においてで、これは病的と判断することが僕ら医師の通例だ。
すなわち、古谷は病気だと。病名は知らない。社会不適合者という括りも単純に、価値観などがどれだけあっているかという点に即した場合において、離れすぎているというだけだから。
そもそも、人間は、どんな人でも、ある点では社会不適合であり、ある点では適合している。不適合の部分が多くなり、例えば殺人衝動や物損衝動、盗む衝動などが強い人は、anti social personality disorderとして病名をつけられる。もちろん、なんらかの情念が関与していれば、情状酌量の余地があるものの社会から抹消される。刑務所行きということ。
もちろん、作中にある通り、縄文時代からそれは変わらない。
普遍的なものであることは、あまり疑いの余地がない。
不細工の処女、定職につかず異なった思想を持っていれば排除されてしかるべきだろう。しかし、ここは人の世。そういう古谷の中におそらく、皆、自分自身の感情に類似する部分を見出すのだろう。 
没個性、コンビニのように機械的に自動的に均一化されていく社会の中で、自分自身のアイデンティティーを求めているのが現代社会だ。それでも、実はこの風潮は1900年代のヨーロッパと変わらないのではないか。内面にこんな風に特別なスペシャルな自分だと言い聞かせ、それと同調する作品を褒め称えていた世界と同様だ。
そこには矛盾が生じる。その作品が特別であるのなら、なぜ、その特別を多くの人が有しているのか。実はその特別な感情は特別ではなかったということだ。
似たような感傷を「コンビニ人間」にも感じた。 
古谷と白羽は、周りにいる人々とは異なった生き方を望んでおり、それゆえ、社会不適合となる。古谷は、社会適合のために、周りと同調することを覚え、コンビニという空間の中でそれを実現する。 
この感情は誰しもあるのではないか。
僕自身、仕事をしているときは脱個性していると思っている。ルーチン化し思考の関与を無視したそうすべきことを肉体が覚えている仕事、自分がいなくなっても代わりがある仕事ばかりだろう。というよりもほとんど全てそうだろう。
仮に、突然、仕事を辞めてみたらいい。なんとかなるから。
人間は社会の世界の一部分でしかない、一部分にでもなれることができれば素晴らしいことではないか。どうしても、アイデンティティーを求め、自分がいなければいけない、自分ではないとこの仕事ができないと踏ん反り返って、自分自身を過大評価して、仕事に身を投じる人もいるが、それは自意識過剰な傲慢な考えだと思う。
コンビニという形式だった空間を抜け出してしまった古谷は自分の存在を見失ってしまう。そりゃそうだ。現状を打破するには現状に対する鬱憤や憤り、未来への希望などがなければ、打破できないのだから、古谷は現状のコンビニという空間を抜け出すことによってburn outしてしまった。よくある結末で見えていた結末だ。
そして、最終的に、コンビニへと帰依する。
コンビニという社会の底辺と揶揄された職業だから、皆が安心して読むことができたのか。僕には、コンビニも医師も教師も他のどんなクリエイティブの仕事も権威のある仕事もどれも同じに見えた。 
この作品の秀逸すべき、特筆すべき点は、題材をコンビニに落とし込んだところだ。コンビニは現在日本には、5万件あるらしい(https://mitok.info/?p=75099)。物語の中の設定を信じると、店長、昼勤4人程度、夜勤2人程度、 6×7=42人/週の労働力が必要で、週3-5と考えると、大体10人程度がコンビニで働いていると考えることができるだろう。とすると、日本全国でコンビニで働いている人数は50万人となる。日本の労働人口は6500万だそうだ。0.8%がコンビニで働いていることになる。医師数は30万人(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/14/)と比較すると思ったよりも少ない。もっと大勢コンビニに関与している人がいるのだろう。
しかし、身近であるコンビニなので、誰でも簡単に考えることができた点が誰しもの共感を得た点だと思う。
そして、これは、自叙伝のようなものなので、次に期待される。ということを常々思うが、恋愛小説などもすでに誰しも経験することなので、コンビニを媒介に普通を説くことは何もおかしなことではない。
残念な点は、白羽という異種と出会うことがたまたまできてしまった点だ。そうでなければ物語が成立しないのだが、そこが必然性がない。コンビニだから許される所以なのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

マノン・レスコー②

冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。 ...