2018年1月8日月曜日

機能の内面化


読書をする時、基本的に読者に与えられる影響は「賛成」か「反対」である。
書かれている内容に賛同、共感し、元々の自己の考え方をより強化にするか、
書かれている内容が自己の理念、思想と相容れないためにその考え方を拒絶するか、
もしくは、
その文章を読んだ時に自分自身の理念、思想が変更され賛成するか
上記三つが基本的な流れである。

前者2つの場合には、本を読む価値はそれほどではない。特に、自分自身の観念が内面化、矛盾なく宗教と化している場合には、賛成、反対のどちらが誘発されるかどうかは疑いの余地がない。
後者1つの考えを改めさせる場合には、どうか。
それは、本当に考え改めさせられているのであろうか?実は、自分自身で自分の理論のほつれに気づいており、本の理論がより合致すると考えたからではないか。
人との議論、会話、雑談も同様である。
人を型作るものはそれまでの経験である。ここでいう経験には、「他人との関わり」「もの・場所との関わり」が含まれる。
どちらも自分自身の中での概念に影響を与える。
なぜ、人が皆同じ考え、思想を持たないのか。
同じ教育を受けていてもどうして異なるのか。
それはつまり、教育を受ける側がそもそもその教育に賛同するか反対するかの違いでもある。
モノとの関わりによって内面化される知識や技能・機能は所詮その個人個人の中で修飾された結果生じたものであり、明らかに歪曲されたものである。つまり、事実ではない。

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