2018年1月22日月曜日

チャンク化


だれでもやってるはずなのに、意外とおこなわれていない??

概念
 チャンク化

一度テレビでも取り上げられていました。啓蒙本にはかなりの頻度で出現するこのワード。知らない人の方が少なくなってきましたか?
電話番号とか郵便番号が覚えられる理由に関わっています。ランダムな数字の羅列は11桁(携帯電話番号)も覚えることはできませんが、それを3つ、4つ、4つに分類することによって覚えることができるようになります。
記憶力がいいひとは無意識にこのチャンク化をおこなっていると考えられます。
ひとの記憶できる数字の羅列は7つと報告もあり、これをmagic number 7といいます。それ以上は覚えることはできません。
それでも、覚えることができている理由はこのチャンク化が関与しています。
これに追加して、知識の内面化も関与していると考えます。
例えば、自分の家の住所を覚える時、ポケモンの名前を覚える時、なぜ、覚えることができるのかを考えてみましょう。
・magic numberを超えた容量でも内面化される事で記憶が容易になる。

次に提唱すべき概念は記憶の長期保存と忘却曲線です。

記憶は、復習をしなければ30分後にはー%、24時間後には-%まで減弱すると示されています。

記憶のメカニズムには、作業記憶、短期記憶などがあり、作業記憶は英語で言う「Figure out」と思われます(やってみて理解する)。
これには作業をしている分、記憶を保持するための時間がかかりますが、忘れにくいというメリットがあります(自転車の乗り方、自動車の運転の仕方、友達の家への行き方)。

テスト前に積み込み学習、徹夜をして試験に臨んだ内容は1週間もしたらすっかり忘れていることはないですか?
これは記憶が短期記憶であることをさします。

さて、ひとは憶える時に、まず、情報を海馬に移動させます。そこは神経細胞の可塑性が非常にたかく(可塑性というのは変化することが簡単なことを言います。)、そのため、新規の記憶を非常に親和性たかく保持することができます。
しかし、その反面、さらに新規の記憶が入ってきた場合、神経細胞のシナプス形状やLTPが変化し忘却していくと思われます。
この新規の記憶が入ってくる前に、記憶を定着化させるには、神経細胞のシナプス形成をより強固にする必要があります。そのためには、シナプスの伝導性をあげる。数を増やす。形を大きくするといった方法がとられると考えられます。
つまり、同じ刺激を加え続けることが重要になってきます。だから、繰り返し勉強すること、反復練習が必要になってくるわけです。

海馬には約ー個の神経細胞があり、海馬のCA1からCA3に軸索を伸ばし樹状突起と接続するシナプス形成の数は約ー個といわれています。
これは、シナプスに特異的なシナプス小胞の数と一つのシナプスの数から概算します。ないしは、後シナプス膜のタンパク質の数と一つのシナプスの数(密度)から概算されます。
ひとつひとつの神経細胞が、それぞれひとつひとつの記憶に関与しているという仮説は僕の中では理解しにくい仮説です。この仮説では、ひとの記憶の量はそのひとそれぞれの神経細胞の総量に依存してしまいます。そして、神経細胞の再生が脳のある特定の部位(嗅細胞)でしか行われないという既知の報告を考えると(この既知の報告が近年覆されそうになっています)、この理論ではひとは成長期をすぎると頭のできが完全に決定してしまうことになります。それは、少し悲しい事実なので僕はそれ以外の仮説をより深く検証したいと思います。
神経細胞ひとつと他の神経細胞とのコネクションの組み合わせで記憶を形成するというメカニズムも考えられています。この考えは、嗅球のにおいの判別メカニズムでよく理解されます。においの検出器はたかだかー個しか存在しないにもかかわらず、僕たち人間は数千のにおいを判別することができます。この根拠として、においの検出器の組み合わせを変化させることによって異なるにおいを検出していることが示されています。例えば、カレーのにおいを嗅いだ時、Aというにおいが50、Bというにおいが20、Cというにおいが80と判断をして情報を伝達します。これが例えば、Aというにおいが40、Bというにおいが50、Cというにおいが80だとカレーではなくハヤシライスのにおいになるといった感じです。この理屈だと、たかだか3つの検出器が0-100の数をもっているだけで、100かける100かける100で100万のにおいを検出できるという理屈になります。これと同様のことが記憶の形成にも関与しているのではないかという仮説です。神経細胞がA、B、Cの3つであり、この3つが、樹状突起にそれぞれスパイクを100こもっているとします。記憶する時に活動した神経細胞がこれらA。B。Cとシナプス結合することにより記憶を形成すると仮定し、どのくらいの数シナプス結合したら記憶となるか決まってるという仮説です。これを検証するにはどうすればいいのでしょうか。

2018年1月18日木曜日

本の「使い方」


本の「使い方」
出口治明


著書は、本が好きなおじさんの話に思える。著書内にもあるように本はその著者との対話であると言っている通り、この人が本が好きで、それで、こんな風に生きてきたよ。と言っているようである。

幼少期から本の虫だった出口さんは、年齢を重ねても本の虫であることは変わりなく、生涯本から教養を得ている。

実家では、世界名作全集や日本名作全集が揃っていた。しかし、それらは暗い納戸にしまわれており、日の光を浴びることはほとんどなかった。家族の誰もそれらの本を開いているのを見たことがない。窓のない2畳ほどの狭い空間に3つのタンスと1つの本棚がしまわれており、その本棚に百科事典や名作全集がしまわれていた。小学生の時、僕はその納戸で地べたに本を広げて読んでいたのを覚えている。イソップ童話に含まれる「北風と太陽」、「犬が川に映った姿を他の犬と思ってわんとほえたら口にくわえているパンを落とす話・・・なんだっけ?これ」「ろばが荷物を運んでいて水を含ませたらものが溶けて運ぶのが楽になったから、違う機会にもう一回水につけたら水を吸って重くなってしまう話・・・これも題名がわからない」から、「海底2万マイル」。とても面白く、これから多くの海の生物を調べたことを覚えている。また、昆虫も好きで、「ファーブル昆虫記」を読み漁った。4年生の時には「ズッコケ三人組」シリーズがお気に入りとなり、図書館で借りてきてはしょっちゅう読んでいた。4年生の時のがんばりノート(恩師には敬服せざるを得ない)には「ズッコケ三人組」を題材にした物語を自作している。がんばりノートとは、恩師の先生が作成した自習であり、あるテーマを自分で選んで自学するという内容を小学生でも楽しいようにお店のメニューとして作成されたものだ。漫画もとても好きで、図書館で「銀河鉄道999」を借りて、家族は公園で遊んでいる時に、一人で車内で読んでいた。また、ドラえもんシリーズも読み漁っていた。血液中の白血球や赤血球について書いてある本も読んだが題名は覚えていない。また、当時はトキが絶命寸前という記事を読んでトキに関する本を小学校の図書館で乱読した。
中学生時代には本を読んでいない。おそらく、読んだのは乙一本くらいだろう。気に入ったらその作者の本はほとんどすべて読むようになっている。その他、記憶にあるのは、「バトルロワイアル」を授業中に隠れて読んでいたことくらいで、図書館に行く機会は多かったが、何を読んでいたかは覚えていない。この頃から、図書館に行く理由は勉強をしにいくことであり、読書ではなくなってしまった。
高校生時代、高校2年生と3年生の時の担任の先生に「どんな本が好きか?どのくらい本を読むか?」と聞かれ、「ハリーポッター」と答えた時に「もっと良い本を読みなさい」と怒られた。それから、「脳の中の幽霊」「死体は語る」を読み、そのおかげで今の僕がある(医学部進学のきっかけである)。「脳の中の幽霊」は高校2年の夏休み1ヶ月を使ってようやく読める内容だったが、とても面白い本だ。この本と肩を並べる本は大学生の時に読んだ「マノン・レスコー」ぐらいだと思っている(もちろん、現在は違う)。それから、親友の女性から多くの東野圭吾本を借りて読んだ。「ある閉ざされた山荘の中で」「白夜行」「幻夜」など、おそらく彼の著書は9割は読んでいる。彼は理系の考え方を持っていてそしてエロチックな点がとても興味深い作家だ。他には「アルジャーノンに花束を」も読んだ。その後、受験期を終え、絵画も見るようになった。大抵の図書館や図書室には絵画全集が置いてある。高校のころはピカソやブラックといったキュビズムの画家に印象を受けた。しかし、ピカソが初期に書いたキュビズムではない絵が好きだった。また、シュルレアリスムの代表であるサルバドール・ダリの「内乱の予感」が最も気に入った(ちなみに、正式名称は違う)。これは、アメリカのフィラデルフィア美術館に貯蔵された絵画であり、そのためにフィラデルフィアに大学6年のとき行った(しかし、見れなかった)。その恩師からは卒業アルバムに「理系にしてはいい文章を書いていた」と褒めていただいた。恩師の先生が近年文学賞を受賞したとかなんとか風の便りで聞いた。喜ばしい限りだ。高校2年生の時に読書感想文のようなものを書く機会があって、クラス全体で投票するのだが、僕の感想文は1票程度しか入っていなかったが、恩師の先生には褒めていただけて感激した。
大学に入学し、本を読む機会が少なからず増えたが、読破した本は少ない。生協の方に教えてもらい、「レベル7」「リアル鬼ごっこ」「9月が永遠に続けば」「ひまわりの咲かない夏」「半落ち」「空中ブランコ」「すべてがFになる」「ノルウェーの森」など多くの日本作家の本を読んだが、結局心に響いたのは森博嗣と村上春樹、東野圭吾だけだったように思う。それから、古典も著書に習い読んでいた。高校時代は倫理の授業でフロイトに感銘を受け、フロイトの「精神分析入門」を読もうとしたが、上巻の半分くらいで断念した。それから、「夢分析」も手を出したが読み切ることはできなかった。近くの図書館で名作を簡単に教えてくれる本を読み(題名は忘れた)、「若きウェルテルの悩み」「マノン・レスコー」「嵐が丘」「椿姫」を読破した。中でも「マノン・レスコー」が理想の女性に見え、今でも大好きな本である。
僕も、著者と同じく自己啓蒙本は買わない主義であるが、最近は薄れつつある。何事も試す価値はあると思っているからだ。
本大学医学部附属図書館では、図書コーナーの一角に世界名作全集と画家全集が揃っていたが、蔵書が増えるにつれ、そのコーナーはさらに隅に追いやられ、僕が最上学年となると、とうとう地下に影をひそめることとなった。これは非常に遺憾である。僕は、そのコーナーから「恋愛論」「赤と黒」を読んだし、「ソフィーの世界」もそこから読んだ。
著者の言う通り、古典は普遍的によい。これは本文にあるとおり、市場の競争世界で残ってきた本だからだろう。
仕事が始まり、否5-6年生のころから、本を読む機会がめっきり減った。平日・休日の時間のあるときは本ではなく、パソコンの前にいることが増えた。本のかわりに論文を読む機会が増えた。仕事上、必要な知識を論文から仕入れることが多く、本と言っても教科書の類を読むようになった。
僕の読書は、「好きなものからはいり、その分野を極めることである」ように思う。そして、読書は本のみでなく漫画が大きなウェイトを占めている。漫画は簡単にその分野の知識が入る。それが正しいかどうかはその後成書を読めばいいと思う。「テラフォーマーズ」「信長のシェフ」「バーテンダー」「ちはやふる」など、自分が全く知らない分野について教えてくれる漫画もあれば、「ワンピース」のように純粋に楽しいものも多い。人を成長させる因子は「出会い」であると思う。その出会いは話し議論をかわすことができる人そのものであり本であり映画である。
この姿勢を忘れず、好きなものに没頭する姿勢を忘れずに、これからも生きていこうと思った。

2018年1月16日火曜日

考え方


たまに、啓蒙本を読んでみるんだけど、啓蒙本の有用性を感じたことはない。
啓蒙本は宗教と似ている。根拠だとか実験で証明したなどを最もらしく述べるのでタチが悪い。
それなら、「この本は僕の経験に基づいているので科学的に立証してない。だけど、読者も共感して行動してくれたら嬉しい」と書いておけばいいと思う。    
僕の文章はとても読みにくい。文章の中に生じる省略を極力省こうとしてしまうから。
それはつまり、英文でitを使わない文章のように。

啓蒙本は、多くの場面で役に立つ。役に立つが真実ではない。
真実を本は語ることはない。そこに記されていることは歪曲した解釈だけだ。
事実はそもそも誰かの目を通される時点で歪曲されている。この命題をなんというんだっけ。リンゴが落ちたことを認識していなければ、そのリンゴは本当に落ちたのだろうか?
シュレディンガーはネコが二匹存在することを示した。
量子力学にそうと、確率論に従い、つまり、ネコは50%の確率で死んでいて生きている。
僕らは絶対的に正しいことが存在していると信じられている(わざわざ婉曲に表現してみた)医療という場面にいるが、医療は正しいという概念はない。「らしさ」はその人に起こっていることを直視して生じることではなく、誰が起こっていることを語るかということによって表現される。

ある意味で僕の素晴らしき教師(人はこれを反面教師というのだけど)は、診察をしない。問診もしない。もちろん少しはする。しかし、ほとんど(ここも100%ではないことに留意すべきである)適切な診断を下し、適切なマネージメントをする。なぜか?
これは、医療の世界が驚くほど限定された世界だからである。
医療技術の進歩により、不必要な検査をすることが求められる。近年の優れた業績は、この進歩にコスト・パフォーマンスという概念を導入しているのが最早常識であるはずなのだが。ガイドラインという「画一した治療を」目指した結果、誰にでも、そう、それこそ看護師にも患者本人にも老若男女問わず、画一した治療をその人たちが実践できるように、ガイドラインは想定して策定されている。たったいくつかのキーワードに従った単純なアルゴリズムにより治療は遂行される。もちろん、現状、同様の結果が返ってこないことは多々あるが、「経験豊富な」医師が行った結果は「正しい」か、「仕方がなかった」出来事となる。つまり、誤診をしていても、「経験豊富な」医師の発言はそれだけで権力を持ち、誤診をしていても患者に悪影響がなければ、「現代のシステムでは」「仕方がなかった」と済まされる。
これに応答して、遺伝子検査など「誰が見ても」一つの結果と決まる検査が台頭してきた。この理論に従うと「経験豊富な」医師が誤診をする機会が露呈したかというとそんなことはなく、遺伝子検査もルーチンに行われるようになり、つまりアルゴリズムに内包された。
さて、なぜ、こんなことが起こるのか?
答えの一つに情報へのアクセシビリティの高さがある。
キーワードを認識することさえできれば(これはものすごく重要)、後のマネージメントを間違えることはない。
キーワードの認識の間違い、選択の間違いによって物事は間違った方向に進む。このことは多々ある。
例えば、「発熱」のキーワード「だけ」だと考え、肺炎・尿路感染症と診断し、抗生剤加療を行う医師に対し、「発熱」に「関節痛」が加わった時、偽痛風を想起することは簡単である。
難しい問題は、関節痛の認識が難しい場合にどうするかという問題である。つまり、そんな偽痛風はあるのか?ということ。
これはいつも判断が難しい。
関節痛がない偽痛風が仮に存在するとして、それは、マネージメントをしないといけない状態なのかということである。つまり、誤診してもいい、ということになる。
逆に、咳・痰のない肺炎がある。これを誤診すると死に関わるとなれば、キーワードの選択はほぼ無意味に等しくなる。
要するに、「発熱」というキーワードだけで、抗生剤加療をしておいたらとりあえず間違ってないといことになる。
さて、一つ疑問が生じた。
なぜ、教科書は正しく診断しなさいと伝えるのか?
診断することによる患者へのメリット(もしくは医療従事者へのメリット)がなければ、診断は不必要である。
仮に、「何にでも効く薬」があれば、診断をする必要ない。

2018年1月14日日曜日

火花


火花
又吉
2018年正月の芥川賞鑑賞会第5作目

ものすごく話題を呼んだ、又吉の火花。
ミーハーと思われるのが嫌だから、読んでなかった本。そもそも、二足のわらじは型落ちで、結局のところ中途半端な出来だろうというのが個人的な見解なのだ。
器用貧乏よりも特殊能力の方が好きだから。

医師と何かという二足のわらじはすごく多い。が、僕はどれも快く思わない。
二足目、いやいや一足目から二流だから。
ダヴィンチや他誰か知らないけど、昔はまだまだ二足履くことが出来た。もちろん、町医者と天文学者でも二足と言われるだろうし、実際に自分で評価したわけではないし、何かを発見研究してても、それしかないのであればそれはわらじじゃなくて、一時的に履いただけでしょうと思っている。
森鴎外だってルイス・キャロルだって、いや、彼らを引き合いに出すのはよそう。僕は彼らの批評をするほど彼らを知らないから。テレビに出ている医師・医学者として突出してもおらず他のこともしています、すごいでしょうは通じないのではないかと思っている。
なんなら、今の僕が、他の職業になれば、二足のわらじになる。なんて愚の骨頂ではないか。医師としてすら、何も突出していないくせに。
じゃあ、どこまでいったら二足のわらじというのか?
僕の中では、世界的に評価されて初めてだと思う。ノーベル賞をとったら、オーヘンリー賞をとったら、フィールズ賞、アカデミー賞をとったら。今の世の中はわかりやすい評価がある。それが正しい保証はない。もの・ことに対する賞は信憑性がない。だって、それは、一時期のことだから。ひとに対して与えられる評価がよりよい評価だ。
芥川賞??だから何?という感じ。と言いながら、「じゃあ、お前が取れよ」という声が聞こえる。おっしゃる通り。もちろん、又吉はすごい。それは揺るぎない。ただ、僕がいっているのは、ベストではない、天才ではないということだけ。

さて、そして、この火花だけど。
はじめと、最後に花火が出てくる。火花と花火は大きく違う。
神谷と主人公の徳永の二人は火花なんだろう。光って消えるのだろう。
自伝的な物語なので、又吉の評価は保留にしないといけないだろう。この作品は非常に又吉だった。
基本的に、思想が一つだった。その思想を強化するために同様の二人がいた。
笑いということに対して、純粋に考えることができた。
考え方がとても、しっくりきた。自分に似ていた。

いくつか記録
"それを最初に始めたものだけが個性であり、それ以外は模倣にすぎないのだ"
”「気楽に好きな事をやったらいいんちゃうか」「趣味やったらね。趣味やったらそれでもいいとおもうんですよ。でも、漫才好きで続けたいなら、そこを怠ったらあかんでしょ」”
“誰かには届いていたのだ。少なくとも、誰かにとって、僕たちは漫才師だったのだ”
"絶対に全員必要やってん”

どれも、心に響く。そして繰り返しの技法を使用しており、心に残りやすい。ただ、押しむらくは、登場人物が又吉に言わされていたように感じたところ。必然性がなくその話が出てきていたところ。そこが残念に感じた。なんとかして、その偶然の必然性を生み出す方法を知りたい。

徳永の考えを述べるところもそう。僕も同様の技法を使用したがるが、でも、それは、徳永が言っているのではなく、又吉が言っているのでしょう。という感じだった。サルトルの嘔吐も小説であり思想本だから、そういう形もありだ。僕は肯定します。
とにかく、又吉の二作目に期待。どんな小説になるんだろう。。

ちなみに、僕のこの物語の印象は、「僕らがやりました」だった。

2018年1月12日金曜日

男と女


男尊女卑と男らしさ女らしさ
社会的役割について男女で区別することは別の意義であると主張したい。

ファッションの話、男性化粧品、アイライナーなど、女性のための化粧道具が男性も使用しうるものに変化しつつある。

その中で仕事においても男性を尊重する傾向が減少し、女性を登用する試みも多い。
進学校の男女比はほぼ1に近づきつつある。
これは福音か。
残念なことにそれでも日本の男女平等は世界水準とは言い難い。2016年の世界経済フォーラム(WEF)の「ジェンダー・ギャップ指数」は日本は144カ国中111位だった(http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF25H07_V21C16A0EE8000/)。
 
女性に求められる仕事、男性に求められる仕事、それらを両性具有のようにどちらも行えると考えることはおかしくないの?と思ってしまう。少なくとも自分は男尊女卑ではないと思うのだけど。

酒場でも同様のことが言える。
人には人の役割がある。
人は皆ロールプレイをしているのである。母親は母親の役割を演じ、父親は父親の役割を演じる。それは環境がそうさせるものであって、個人個人はその時々で本人の意志であると感じるが本人の本質を示すものではない。

女性はお酒を注ぐべきなのか、サラダを取り分けるべきなのか。
結論はどちらでもいい。
どんな場合でも状況により異なるため、命題をより詳細に記載しないといけない。つまり、「恋仲でない男性と女性が二人で食事に行った場合、女性が男性に気があるのであれば、女性はサラダを取り分けるべきなのか」である。

日本語は常に主語が省略される傾向にある。特に、文が連なる時に省略される傾向にある(この一文も省略している)。
英語であれば、
When a man and a woman who are not  partners each other are eating a dinner together, should she dishes out for him, if she loves him?

役割を担うことで個人個人の内情を吐露することも可能である。
「これは俺がやる」と男が荷物を持つ時、男は夫としてのロールプレイの他、「かっこいい」「できる」男としてのロールプレイを行なっている。逆説的に、荷物を持つということが「できる」人として同等の意義を持つ。できる人をアピールしたいのであれば、荷物を持ちなさいということだ。それはつまり、全てに通ず。「優しい人」と同等の意義をもつ行動は何か、もちろん、「優しい」「かっこいい」「できる」など抽象的でありそれぞれの人によって定義が異なる事柄の場合、個人個人にとっての「優しい」に焦点を当てなければならない。例えば、足が悪い人の立位を助けてあげることは優しさなのか、数学の問題の答えがわからない人に答えを教えてあげることは優しさなのか、仕事が遅い人の仕事を代わりにすることは優しさなのか、優しさとは相対的、抽象的なものであり、TPOに従い簡単に変化するものであることに留意しなければいけない。これはものすごく難しい。   

言葉に変換することで多くの情報が失われることにも注意を払うべきである。
「百聞は一見に如かず」、経験論を絶対的に信用している多くの人(これは殊更医師には多い。これをexperienced based medicineと言う。)は、経験の少ない人の経験を軽視し、自分の少ない経験を軽視する。


2018年1月10日水曜日

ロリータ


Lolita 1955, 
監督 Stanley Kubrick
脚本 ウラジーミル・ナボコフ

ご存知、ロリコンの語源となった小説の映画版
僕がこの作品を知るきっかけとなったのは西加奈子の作品i[アイ]を読んだからだ。
「テヘランでロリータを読む」がきっかけ。
ロシア文学というと長い、だるいが僕のイメージ。ごめんなさい。これはトルストイとかの影響だと思うけれど。
一応ナボコフはロシア人で、ロシア文学者だけど、ロリータはアメリカ文学の古典として残されている。
ハンバード・ハンバードは自分のこともハンバード・ハンバードと第三人称で話す。
ロリータことドロイズ・ヘイズに恋をし、映画中では性的な描写は皆無なのは時代背景によるのだと言う。
小説だと、ロリータとハンバードの性的描写もあるらしい。映画ではそこが見受けられないので、性的倒錯者の愛が少し薄らいでいる。しかも映画でのヒロインSue Lyonが綺麗すぎてもうすでに少女でない。当時彼女は15歳(12歳と書いているところもある。元文献を確認したい)。しかもアメリカ生まれのアメリカ育ちだから、彼女は僕の中で18にも22にも見える。だから、僕にはハンバードが偏屈な異常少女愛者には僕は見えない。単純に彼女への愛情表現の仕方は間違えていると思うけれど。そうすればするほど嫌われるだろうにと単純に思ってしまう。sue lyonは4回も結婚してる。
なぜ、ハンバードはそれほどまでにロリータに固執したのか。

有名な散文を引用しておこう。
ロリータ、我が人生の光、わが腰部の炎、我が罪、我が魂。
ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

Lolita, light of my life, fire in my loins.  My sin, my soul. 
Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.

あまりにロリータと現在のロリコンがかけ離れていると感じた。
ハンバードがペディキュアをするシーンは異常に思えたけども。

2018年1月8日月曜日

ローマの休日 Roman Holiday


ローマの休日
PreservasionとRepairmentが大事だって、DVDの中で言及された。
30年から50年の作品はpreservationが重要で、50年以上経った作品はrepairmentが重要だって。

これだけすごい作品が後世に残っていくことをここにお祈りします。

さてさて、温故はすごく重要で貴重だ。それを常に忘れずにするべきだ。
僕らは巨人の肩に乗っているのだから。
実際にそれをするのは、その人達に任せた方が良い訳で、僕らは僕らの時代を作っていかなければいけない。僕等にしか知識の共有ができないクリエイティブな世界を作成していかなければいけないし、現在の芸術を評価することができる人は、僕ら以外には存在しない。
ということは、数多くある作品を吟味して一つ一つをできる限り評価しないといけない。
評価を受けていない作品が多く出回り、珠玉が検出されやすくなった代わりに、珠玉の紛い品が数多く出回るようになったから、本当の珠玉をきちんとpreservatedしていかなければいけないんだ。

ローマの休日は僕が大好きなオードリー・ヘプバーンAudery Hepburnの出演。これで、僕は、三つ彼女の出演した有名作品を鑑賞したことになる。
"ローマの休日"
"パリの恋人"
"ティファニーで朝食を"

他にも見ておきたい作品が多いが、生きている間に見ることができるんだろうか。
"シャレード"、"麗しのサブリナ"、"マイ・フェア・レディー"、"戦争と平和"
買っちゃいたくなるよ。素敵すぎて。まぁ、全部DVD化してるから、急いで買わないと手に入らなくなるということはなさそうだ。ゆっくり落ち着くことにしよう。

ローマの休日は、1953年に製作された。ウィリアム・ワイラーが監督。
イタリアのローマを訪問した某国の王女と、新聞記者の24時間の恋が描かれている。
某国の王女、Ann、ちょっと、無防備すぎる!とドキドキする始めの酔いつぶれたシーンから。
お酒かと思ったけど、Wikipediaを閲覧すると、その前の鎮静剤のせいでうとうとしていただけらしい。
ブラッドレーは初めは親切心で部屋に入れた。
Annが王女だとわかった後は、スクープのネタにしようと写真と内容を聞き出そうとする。そのためにローマを観光する。
そのうち、ブラッドレーとAnnの間柄はどんどん親密になる。
表情でAnnが恋してきているとわかる。言葉はない。愛を語ることはない。
ブラッドレーがものすごく紳士だ。アメリカ人のくせに。イタリア人かと初めは考えていたけれど、その口数の少ないところ、もちろん、彼女を楽しませることは話すが。
何より、僕もブラッドレーを見習わなければいけない。少し高い声。楽しそうな表情。少し危ないところ。なんと楽しそうにブラッドレーも過ごすんだろう。
ヘプバーンは可愛すぎて、本当にただのショートカットフェチなんだけど、可愛すぎて、僕は彼女に見惚れてしまっていた。

スクラップ・アンド・ビルド


羽田圭介

2018年正月の芥川賞読書会第4作目

帯には、「慣例、常識、価値観の違い。最近すごく考えます」と。

「死にたい」と常々口にする爺を介護する無職の主人公28歳。
主人公は、爺が健やかに死ねるように肉体が衰え、脳が衰えるような介護をしようと決意する。
一度、心不全に伴う肺水腫になり入院するも、軽快する。最終的には特別養護老人ホームへの入所を決定(入所する前)し、主人公の就職先が決定し、二人は離れ離れになる。
死に向かう爺と、これからも生き続ける若い主人公。その違いを主人公は常々意識している。

さて、一般論。
おそらく、生きていることが一番大事だよ、生命が第一に決まってるという大衆の愚鈍な意見の中で、この作品はいやいや人間死ねばいい人間もたくさんいるよと提唱しているところに、価値観の違いを見せつけているのだと一般的には解釈するのだろう。
行なっていることからすると、息子は介護を頑張っているが、真意は早く死んでくれた方が世の中のためだと考えている。
そんなこと、この現実社会ではいうことはできないでしょ?すごいでしょ?オリジナリティ溢れるでしょ?どう?と。

死というターニングポイントは現在社会ではかなりあやふやになった。というのが、これまでの古い世界とは違うことを意味するよく耳にする一文だ。人工呼吸器がその一助を担っている。しかし、僕らの中では、それは、最終的に本当に死ぬ瀬戸際の時のことを細分化しただけであって、おそらく、その段階に一般の方が直面すると死んでいると同義だろうと思う。
なぜなら、彼らは、実の両親や知っている数かぎりない人の死しか見ていないからだ。
その最終局面に至る前段階で、基本的には入院したり医療資源を得たりする。
そのレベルでは基本的には死へは直面していない。
つまり、元のように生活を営むことができるレベルまで改善する人が大勢いるということを知らない。
さて、この作品にあるように、生産性のない老人を排除することを考えてみよう。
そもそも、生産性がないということをどのように定義したらいいだろうか。僕は生産性があるのか?この主人公は?何を持って生産性というのか?子孫を繁栄させる能力か生活(誰の?)を向上させる能力か?
現時点の問題だけを取り上げればいいのか?
将来性を加味する必要があるのか?
つまり、現段階で生産性がなくても、将来的に生産性がある人物になる可能性がある場合、生産性をあると考えるべきなのか。この可能性はどの程度の可能性であれば、許容すべきなのか。
現実的に、どこからを老人と定義してどこからを生産性と規定するのか?
そう考えると、若い主人公もすぐに死刑の順番が回ってくるのでは?と思えてしまう。
十戒では「人を殺すこと」は禁じられている。死刑を反対する国も多い。
しっくりくる説明は人を殺すことをすると自分も殺されるかもしれないから人を殺してはいけない、という説明。
自分が殺されないと確信できるなら殺してもいいじゃないか。そういう暴論に至る。
まぁ、何が言いたいかというと、どこから排除したらいいか基準は非常に曖昧である。故に、どんなに不具合がある人でも死に至らせることに賛同を得るための基準の作成は難しいと思う。
そうすると、死の前段階、Frailとしましょうか、Frailの人は全員死ねと言いかねない。やっぱり、何を持って基準になるかわからない。

スクラップ アンド ビルドというタイトルであり、scrap and buildであり。
作中もなんども何度も繰り返される筋トレに示唆されるように、ダメにして、再構築することが書かれている。
大きな流れの中では、祖父をスクラップして子孫である孫をビルドするし、祖父の中でも、病気になってスクラップされ、改善していく。流れは常に同様のことを示唆していた。

感想としては、これに賛成の人も多々いるだろう。特に際立ってダメだ!ということを言っていないから。
存在の否定という点をどの視点で考えるかだ。

爺にもっと過去を与えた方が個人的には美しい物語になったと思う。あまり、この二人に共感できなかったからだ。

冷血 Cold Blood


トルーマン・カポーティ

えっと、まず、あらすじとかそう言うのを書く前に、純粋な感想を書きます。

カポーティの洗練された比喩表現がこの小説には少なかったように思います。
それは、彼が、これを機に文体が変わったことに関係があるのか。
これまでは、天賦の才で文章を作ってきた彼が、文章を作れなくなったのではないかと思うようでした。
もちろん、冷血は本当にあった事件を元に6000枚ものノートを資料としてカポーティが作成した(執筆したよりも作成したの方が表現がしっくりくる)ノンフェクション・ノベルだから、だから、比喩表現が少なかったのかもしれません。

彼が作った登場人物はどれも生きているように感じました。多くは死にましたが、家族という小さな単位がこの物語にも何度も何度も繰り返し出てきます。家族愛に満ちた登場人物は読んだ後、自分の中で生き続けるようです。
また、えっと、それぞれのシーンの描写が非常に細かい。死刑執行の雰囲気や感情が読者に流れてきます。どうしてもリアリストなので、その風景がリアルなものなのか、カポーティが作成したシーンなのかどうかという点が気にかかります。法律も、裁判所の流れも。
「というのも」という表現が多く出てきているのは、佐々田雅子さんという訳者さんによるのでしょうか。かなり耳に残ってしまいました。というのも、文章中に何度も何度も繰り返し出てくるからです!

かなり長い小説だったので、一気には読めませんでしたので、内容の初めらへんも忘れてしまってます。
初めの伏線が回収されたことを残念ながらわかってない可能性もあります。それは読み返さないと。ウェルズを気にかけるシーンもあったけど、ウェルズが再登場した時にはすっかり忘れてました。覚えてられない自分のちっぽけな記憶力に幻滅です。普遍的に言える「死刑」に対する姿勢についてを考えさせられるものですが、流れは死刑に向いているので、なかなかなぜ死刑をするのか考える余地が一度目にはありませんでした。
統合失調症を引き合いに出すのは、こういう小説では正直ありふれて陳腐でしょうか?それとも、現実だからなのか、冷血が初期作品で、その後の模倣作品を読んできただけなのか、その辺は僕にはわかりません。

2017/11/18 追記
映画を見ました。全然冷血に対する印象が変わっています。トルーマン・カポーティを一読。

異類婚姻譚


本谷有希子 
154回 芥川賞受賞作

2018年正月芥川賞読書会第2作目。

以下ネタバレも含みます。ご了承ください。

すごい。また、難しい。
難しいという感想は僕の中では賛辞だ。わからないという感触は自分を成長させうるから。

主人公のサンちゃんは旦那の顔と自分の顔がそっくりになっていると感じる。
ありきたりな、よく誰もが思う命題を掲げる。
自堕落な旦那。その顔が生き物じゃないみたいに、気味悪く変貌していく。
サンちゃんはそれが自分自身も同じなんだと考える。自分自身も自分を保っているのだろうかと。
その中で、キタエという老婆とその猫の問題。
猫はションベンをあちこちに撒き散らすため、キタエ夫婦はその猫を山に捨てようとする。
猫というのは、同様に家族であり、この本の中では、それは自分たちを捨てるようにも見える。どれほど正当な理由を持ち出していても。
自堕落な夫はゲームにハマり、油ものにハマり、サンちゃんは籠絡され、受け入れる。
最終的に、夫は山芍薬に変化し、妻はそれを山に還す。

"立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花"

芍薬になった夫をどのように解釈したらいいだろうか。
現代社会に疲れきっている夫。
恐ろしいことに、夫の内面と社会性を説いたことはこの文中にはない。それを僕は、夫が話したがらないから、聞くことをしなくなったのだと思っていたが、それは同時に、サンちゃんも考えることを放棄していたからだということが終盤に判明した。
夫は、なぜ山芍薬を選んだのか。
芍薬は美人の象徴だが、どういう意味があるのか。


芍薬の属名はPaeoniaというらしいが、ギリシャ神話の医の神  Paeonにちなんでいるらしい。
うーむ。芍薬甘草湯だしね。
ボタンと違って、草木。
ボタンは花王と呼ばれ、芍薬は花の宰相「花相」と呼ばれるらしい。
冬には枯れてしまう花。

山芍薬は? Paeonia japonica
日本に多い。
茎の高さは30-40cm, 茎の先端に直径4-5cmの花を一つつける。
花は白色、開花して4日程度で枯れる。
準絶滅器具種らしい。

意義がよくわからない。
単純に、女性のように綺麗な人に、考えなくてもいいように花に。という意味なのだろうか。
サンちゃんがこれまで花であり、これまでの男性が土で栄養を与えられるとともに自分自身を型作られていた経緯から、自分自身がそちら側に立ちたかったということか。それでは単純すぎて、わざわざ、本当に姿を変えなくてもいいのにと思ってしまう。
姿を変えたのは、ギリシャ神話の変身物語をおおもとにしてるのでしょう。
ヒュアキントスやナルキッスス、チューリップのように。
ギリシャ神話では、変わった物語と変えられてしまった物語が存在する。
変えられてしまったと考えた場合でも、山芍薬は少し不自然に思える。なんでか説明しにくいけど。

老人と海


1952年
アーネスト・ヘミングウェイ
福田 恆存訳

えっと、僕は、翻訳者にもすごくこだわる。というのも、翻訳が変わると文章は大きく変わると思っているから。言い回し。比喩表現。そういうのをより美しく写すことができるかどうかは翻訳者に寄っているからと思ってる。
柳瀬さんのユリシーズは読んでみたいが、それ以外を嫌厭しているのと同じで。

さて、ヘミングウェイは初めて。
1952年というのは、どういう年かよくわからないけれど、アメリカは世界のトップに躍り出たはずの時代かなと思う。第二次世界大戦が終わった後だし。誰か知ってる人教えてほしい。あまりに歴史に無知なもので。

さて、老人の描写が素晴らしい。僕は正直、釣りのことなんてわからないけれど、漁師という仕事はこういうものなんだろうと思った。"白鯨"や"重力の虹"が百科全書的本と言われており、それに類似する感じを抱いた。すごく漁師に詳しくなったような気がしたから。
僕はひねくれているから、人は幸せになれない(作り物の中では)とどうしても思ってしまって読み進めていく。せっかくの大魚を釣り上げたのに、老人は岸につかず亡くなってしまうのではないか、魚が外れて海に沈んでしまうのではないか、そう心配しながら読み進めた。大魚を釣り上げた時点でまだ半分のページが残っていたから、あとはどんなドラマが待つのだろうと不安になりながら。
それもこれも、ヘミングウェイが生み出した、いや、元々存在していた自然の残酷さ厳粛さ偉大さが表現されすぎて、人間がちっぽけな弱い微かな存在であることが認識されてしまう。だから、不安になる。
「老人の四肢は痩せこけ、項には深い皺が刻み込まれていた。熱帯の海が反射する太陽の熱で、老人の頬には皮膚癌を思わせる褐色のしみができ、それが顔の両側にずっと下の方まで点々と広がっている。ーーーーこの男に関する限り、何もかも古かった。」
目を除いては。 
それでも、漁にでる老人の年齢はいくつくらいなのだろうか。違和感がある。
少なくとも、四肢はよく動いているし、認知機能も維持されている。当時の平均寿命が68歳程度みたいなので、それを思うと、それよりもだいぶ若いんだろう。50歳代後半くらいかな。今だと全然年寄りに見えない。
僕の中で老人というと80歳とかでなかなか自立した生活ができない、できていても危なっかしいと思われるのに(もちろん、何もかも自立した老人は存在するが)、この老人は元気すぎる。

それもこれも、時代背景が違うからだ。でも、老人は確実に脱水だ。正しいのかな。なぜ、気が遠のいたのか?

解説を読んで。
ハードボイルドの作風ということでそういえばヘミングウェイがあがってたな、ハードボイルドってのは、つまり、心情を表現せず、外見のみで内面も表現していく散文ってこと?
また、原文を読まないとわからないのじゃないかと思う。

読書メーターで、いろんな人の感想を読んで。
ライオンという象徴に言及をしていることが多い。確かに、ライオンとはどういう概念で生まれるのだろうか。
ふと、獅子座を思う。ヘラクレスと勇敢に戦った人食い獅子。ヘラクレスには負けはしたが、ヘラは獅子を星にしてくれた。それが獅子座。
アメリカにライオンなんて存在したか?
アメリカライオンはピューマのことらしい。でも、ピューマは北米の生き物で、現在は絶滅の危機にひんしているけども、ローキー山脈とか南は南米大陸南端のパタゴニア平原にいるらしいんだけど。
でも、この老人はキューバだから、いや、正しくは、ヘミングウェイがキューバに行った時に書いただけだから、ヘミングウェイの頭の中にあるライオンはどれのことか分からないけれど、少なくともピューマのことじゃないと信じたい。だって、ピューマって貧相なんだもの。
ベルクマンの法則(寒いところでは大きくなって(体表面積を小さくしたいんだって)、暑いところでは小さくなる)にのっとっている生き物なんだと。アレンの法則も類似したことらしい。
ピューマは小さく見えるんだもの。それに、亜科もライオンやヒョウのヒョウ亜科じゃなくて、ネコ亜科だし。
とすると、やっぱり、百獣の王のライオンを示唆してるんだろうな。ホメロスがライオンを百獣の王と表記したらしいけど、元文献がなくてよくわかりません。 

オードリー・ヘプバーン展@京都


2017年9月18日に京都の大丸で開催されていたオードリー・ヘプバーン展の記録です。
めちゃめちゃきれいな美女!
あ、美女ときれいって言葉が重複してるな。
黒の流行りの、えっと、肩が落ちてる服をきて、白いカバンを肩にかける。
髪の毛はツヤツヤで、小さくまとめられてる。大きな栗色の目をして、爪楊枝が乗るくらいのマスカラ。横を通る時にふわりと香る、なんだろう、何かはわからないけど、ひどくいい香りだ。
道を確かめるために立ち止まると、彼女は人ごみに消えた。

6階にお目あての写真展があるらしい。男1人。
これ、1人ではいるの?
DAIMARUという立地。オードリーヘプバーンという被写体。
被造物としてはあまりに素晴らしすぎる。勝利に輝く歓喜に心が奪われそうだ。
どう考えても男1人で行くところじゃないように思うけども。
とりあえず入り口まで行ってみよう。
エスカレーターをあがる足はどんどん重くなる。歩いてないからそれでもいいんだけど。
一歩一歩進む。男のペアがいなかったら、やめようかな。
変なことを思う。わざわざ、ここまできたのに。
逆説的だけど、廃れていたら、入ろう。
家族連れやじじばばが多かったら、入ろう。
入り口にきてびっくりする。人は多い。老若男女問わず。
よかった。もう、立派な芸術作品だ。

Mark shaw, Bob Willoughby. Sid Avery

ヘプバーンのルックスへのコンプレックスは本当だったんだろう。それでも、彼女の真摯な目線が惹きつけられる。少女のようには見えないけど。
足をだしてもいやらしくない。
サブリナのときの。1954年4月ライフ誌の表紙。

確かに歯並びは実はあまりよくない。コンプレックスって言ってたけど、彼女の素朴さはでも、自然で素晴らしい。ショート。あまりにショートヘアだけど、美しい。 
ローマの休日の途中で歯並びが良くなっているのは有名だ。その時に矯正されたのか?

エブァ、ガードナー
エリザベス、テイラー
オードリーに妖艶って言われる。

オフタートルネックのコートは彼女のコンプレックスだった長い首を魅力的に見せる。
やばい。どのしぐさもかわいい。パリの恋人のときのかな??
左をむいてこっちを見るのとか、ちょっと上目遣いとか、可愛さが溢れてる。

姿勢がいいのも素敵なところ。

"世界一美しい目は世界一美しいメイクから"。謙遜。それがいいのよね。

たまたまかもしれないけど、お食事中もソファーに座らずに椅子に座ってた。気品が溢れてる。流れてる。

写真の節々におどけてる感じが映る。
ユーモアもあるって完璧じゃん。羨ましいなぁ。

"幸福とは健康と忘れっぽさ"

彼女のファッションはシンプルだ。
定番の黒のトップス、八分丈パンツにフラットシューズ

"弱点は隠さず、長所を伸ばそう。
自分を客観視することができるのは一つの能力でもある。"

なんでも、自信がない方がいいのよねー。知ってる。それを補おうと努力できる人が優れてることを。

古典小説を読むのが好きってほんと!?
被写体が良すぎるのか、本を読む女性って素敵だよ。ルノワールも描いてた。フラゴナールも。 フランソワ・プーシェも。いつの時代も本と女性はいいコンビネーションだね。
あ、あぐらと、床に本なのに、背筋はぴしっ!

小物使いのうまさは、それはもう、みんなお手本にするべき!スカーフ20枚持ってるんじゃなかったっけ?

彼女の好きなジバンジィ
柔らかい白のストローハット。ハットには小道具はついてない。耳には小さな真珠のイヤリング。ノースリーブのシルクの袖から細い腕が伸びる。彼女を境に時代は変わった。
愛犬はミスターフェイマス。presented by メルファラー

ドレスってこのシンプルなのって、昔というより今だよね?

"精一杯愛するから、私のことも愛して。"
激しく首を振り同意。これは、愛についての洞察で、心に留めておこう。マノン・レスコーにも似たようなことが書いてあった。

"彼女は、女性でいるより、母親でいることをのぞんで、もっというと、仕事人であるよりもって、それが、女性であり母親である生き方だと思う"
修身斉家ね。それについては、またどこかで書きたいと思う。僕の座右の名の一つだから。

オフタートルネックは本当に可愛くみせるなー。



以上、オードリー・ヘプバーン展でした。 




ティファニーで朝食を


トルーマン・カポーティ. 1950年

カポーティは、早熟の天才と評されたアメリカの作家。21歳でO・Henry prizeを受賞する。「ミリアム」という短編だ。
若輩のぼくが評価するのは忍びないけれど、「ティファニーで朝食を」にせよ、「ミリアム」にせよ、カポーティは直接的に哲学的な問いに答えようとしている。
ホリーが愛について語るシーン(p129)、生き方について考えるシーンなど登場人物に語らせて答えを得ようとする。それも、ホリーは放埓だから、会話は突然に終了する。本当に突然に。
ぼくは読みながら彼女の会話に心を奪われていく。綺麗なリズム。スイスイと読むことができるのはカポーティの功績か村上春樹の功績か。村上春樹があとがきでカポーティの文章は「リズムにリズムを重ね、素晴らしいセンテンスを作り上げる」と書いてあるので前者なのだろう。
ぼくは彼女に惹かれていく。残念なことに、ホリーが映画のオードリー・ヘップバーンに重なるのは否めない。
カポーティは初めヘップバーンに演じて欲しくなかったようだが、ぼくはオードリー・ヘップバーンでも特に問題なく演じているのではないかと思う。もちろん、ご存知の通り、映画と本の流れや結末は合致していない点が多いのであるが。
ティファニーというだれでもが知っている(本当に1950年代アメリカで知られていたのかはわからないが)有名ブランドをタイトルとし、ホリーのティファニーに対する思い入れ(そう。ここが面白い。ミリアムと同様、ここは彼女自身の精神である。)がそのまま主人公の心の中に移動している印象を受ける。
映画では、ホリーが愛する人が誰かということは不明だ。まやかしなのか。
ホセに惹かれ結婚を考えていた、真実の愛を唄っていた彼女が、裏切られたことで主人公への愛に気づいたという流れが映画だが、これは、正直嘘くさい。ありきたりの結末で面白くない(もちろん、元ネタが「ティファニーで朝食を」で多くの作品がオマージュしている可能性はある)。
それよりも本の流れで彼女は幸せになったのか?名前を得たのか、読者の想像にお任せする方が話が膨らみやすい。
猫に名前をつけることができず、互いに所有されることを拒んでいたにも関わらず、最後には共依存していたことに気づく彼女は僕らに似ている。彼女いわく、「私はなくなってから、なくしたものが大事なものだということに気づく」らしいが。

不思議なことに僕たち(人間?)は、人との関わり合いの中で実存を確認しているはずなのに、人との関わり合いでは人はそれほど自分自身を共有させることが苦手だ。
本という一方通行性のメディアに対しての方が人は関わり合いを持ちやすい。感傷を抱きやすい。
つまり、本というメディアから一方向性に情報を共有させられ、読了後は一方向性に本に対して思いを抱く。その後、他の人と話し合ったりすることで自己の意見を共有したりするように見える。が、本の内容という他者の思想をこねくり回しているだけで、本来の自分自身を共依存させようとする気はなさそうだ。
しかし、かといって、自分自身を共有させないからといって他者を共有しないとなると寂しいという感情が渦をまく。
猫は喋らない。それでも、ホリーがお互いの所有物だということがわかったように、僕らも言葉を持たないものでも共依存することがあることを肝に銘じるべきだと思う。

さて、「冷血」を次に読もう。
「冷血」は優れたストーリー・テラー出会ったカポーティが作成した「ノンフィクション・ノベル」である。社会の評価は、少年は大人になるということでいつまでも神童ではいられないということだ。
物語を紡ぐ時、人は無からは創造できない。創造のタネがいる。それが大人になるにつれなくなっていく。
「ローマの休日」で見られるように新しい出会いは興奮と想像の芽を生やさせるが、見慣れた景色からは何も生まれない。
僕らも見慣れた景色にうずくまってはしないか。
日々の日常業務からは何も生まれない。
新しい視点・視野が必要だ。

パリの恋人


パリの恋人 Funny face
1957, America, Musical
監督:スタンリー・ドーネン
脚本:レナード・ガーシェ
主演:オードリー・ヘップバーン

パリが舞台のジョーとディックのラブストーリー
ヘップバーンが演じるジョーは、共感主義マニアの小さな本屋で働く若い女性。
共感主義なんて耳に覚えがないなと思って調べたけれど、あまりメジャーではないのか、すぐには調べられなかった。
ともかく、人は人のことを共感することができる、言葉に出さなくてもわかるでしょ。って感じの概念なのか。これはすごく日本的な考え方だ。一を聞いて十を知るようにしなさい、と。
うーん。そんなことは非現実的だと思うのは僕だけなのか?
KYという言葉が2007年流行語大賞になった。空気を読むという概念は、実はものすごく洗練されたものだと思う。
フロストルと共感主義について話すジョー。それを横目でみるディック。ジョーはディックに邪魔をされて怪訝にするが、フロストルが下心だらけのことを知り失望する。
共感なんて言葉は、恋愛関係に至る場面にはなにも役に立たない。誰も彼もその人物に気に入られるように行動するから。共感されているしていると勘違いするけど、それはしっかりと勘違いである。
ちなみに出場人物のフロストル教授はサルトルがモデルらしい。
まぁ、ヘップバーンが可愛いのでなんでも許そう。 
オードリー・ヘップバーンファンの戯言であった。

賢さとは


賢さとは何か。
これは、「学問のすすめ」を読んで至った考えである。
僕は、ハーバード大学留学中にハーバード大学生に同様の質問をしたことがある。
そこは、分子細胞生物学分野で脳神経について研究する部門であったからか、返ってきた答えは至極納得のいく答えだった。 
「賢さの定義が曖昧だから答えられない」

さて、賢さとは、記憶力がいいことをいうのか、計算能力が高いことをいうのか。
そのようなことを答えと考えている人は現在は減っただろう。記憶や計算はコンピュータが担う時代になってしまった。
そのため、人間に課せられた賢さはそれ以外で推し量る必要が出てきた。
「応用力」「実用能力」はどうだろう。
今あることを用いて他の人より(ここは相対的表現を使用してみよう)、早く効率的に行うことができるかどうかが賢さの基準としてみよう。
これは一つの賢さについて説明しただけで、賢さがこの応用力・実用能力だけとは思わないが。
応用力、実用能力の意義は、福沢諭吉が説いた実学に通ず。
実学とは、現実社会に役に立つことを目的とする学問である。
しかし、この考え方も時代の変遷に従い変えていかなければならない。
とりわけ、医療において、病気を治す時代から病気を発症させない時代へと変化していきた。
発症させない治療方針は実利を伴いにくい(現実には歴史的レビュー(historical review)に照らし合わせて効果の有無を判断できるのだが、無知な患者には実利を伴っていることが実感しがたい)。
そして、このような実学、実利はその状況によって変貌することに留意してほしい。
僕は中学生の頃から考えていたことであるが、その場面場面に応じて必要な能力は変化することに気づいていた。
それはつまり、テストにおいては、英数国理社の勉強をして理解している人が賢いということになるが、バスケットボールをしている時には、バスケットボールのシュートがよく決まる人が賢い(うまい)ということになる。休み時間におしゃべりをする場面では、昨日のドラマに出てくる俳優を知っているかどうかが賢さの基準であるし、ミュージックステーションで新曲を聞くことが重要となる。井戸端会議では芸能人や身近な人のゴシックネタをどれだけ知っているかが賢さの基準であるかもしれない。
全てに通じている人はどの領域においても賢いということになるが、そのような人は存在しない。
全知全能は存在しない。全知全能は存在しないことの証明はネットにたくさん転がってるのでぜひ参照していただきたい。
そのため、賢さを定義する時には、どの領域・場面においてという前提をおいて賢さを議論する必要がある。
これは、僕は論文や臨床において問題提起をする時に考えることである。周知のPICOのうち、Pをより理解することが大事である(嘆かわしいことにほとんどの若輩者においてこのPは軽視されている)。
何が言いたいかというと、ある部分の領域・場面ではどんな人も一番賢くなることが可能だということである。また、逆に言えば、どのような分野でも自分が最も得意とする分野以外ではより賢い人がいるということだ。
僕は、これは、限りなく小さな領域についても同様のことが当てはまると思う。例えば、Aさんに薬を投与するにさしあたり、どのような効果が出てくるかを考えるときに、経験豊富な医師よりも経験は未熟だが、週に一度しか患者を診察しないお偉い教授よりも、毎日、真摯にAさんを診察し、検査所見を文献、これまでの臨床経験、同僚や上級医の臨床経験、相談などを含めて、吟味した研修医の方が薬の効果の推定が正確であるだろう。
僕の大学のカンファレンスでは賢さを「学び」におく傾向が強かった。学生であれ研修医であれ、よく学び、調べ、検証し患者に当てはめた理論は尊重された。天は人の上に人を作らない。ただ、学びを続けたものを上におく。
賢さは年齢や学年、知識量、記憶力などにはよらない。賢さを規定しているもっとも大きな因子は、その分野における熱意と献身である。もちろん、これは、勉学に励まない人が勉学に励んでいる人よりも知識がないからといって熱意があるから賢いことにはならない。パラドックスのようであるが、熱意がある人が、そのほかの熱意がない人と比べて賢くなければ、それは、僕に言わせれば、熱意が足りていない。熱意とは主観的なものであり、客観的に評価ができない。そのため、僕が心エコーに興味がなくほんのさわりしか知らなくても、その興味以下の熱意と献身しかない人よりもエコー技術が高く、評価することができる。つまり、賢いと言うことだ。

しかし、そうはいっても賢いと思われる人はいる。
なぜ、賢いという人はいるのか、僕は、賢い人は賢い人からよく学んでいると思う。
学ぶ領域は多岐にわたる。医学に限れば、教科書から、同僚から、論文から、学会から、そして当たり前のように患者からである。そのほか、医学のみならず、新聞、ニュース、本、漫画、絵画、音楽、スポーツ、家族など、多くのカテゴリーから学ぶことができる。

周りを見てほしい。賢い人から本当に皆学んでいるだろうか?
学ぶ場面を自分で限ってないだろうか。学生の時に勉強会を嫌がり学ぶことは上の先生からのレクチャーのみと考えている人がいた。これではいくら勉強しても賢くはなれないだろう。
あなたの周りも年功序列になってはいないだろうか。
自分は賢くないからと教えることを放棄していないだろうか。スピーチという概念が日本に浸透し、誰もがスピーチを気軽にできるようになったことで、順位づけがされていないだろうか。
もちろん、スピーチの内容も考慮する必要があるが、その分野では一番の知識を得ているという自負を持って話すことができるだろうか。スピーチの有用性については、スティーブ・ジョブスの例を見れば簡単に理解できる。彼をあそこまで押し上げたのはスピーチに他ならない。また、福沢諭吉も学問のすすめの中でスピーチの重要性について言及している。

賢さを得ることはどの分野ということに幅を狭めれば難しいことではない。
ポケモンの名前と技を全て言うことができるだろうか。その点のみで言えば、その辺にいる小学生は自分より賢いのではないか。
なぜ、自分を過小評価するのか。熱意と献身を何にも持たない人間など存在するのだろうか。

マノン・レスコー②

冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。 ...