2018年3月10日土曜日

マノン・レスコー②



冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。

時代は、フランス。
マルタ騎士団に入って欲しい一心からグリューをシュヴァリエと称する父。相当に裕福な階級であり、それはつまり、読書という存在がそのような階級に一般的であった事を示唆する。
アミアンに住むグリューは、17歳。哲学の教育課程を終了した時に、マノンと出会う。
初対面のグリューは、マノンに対して、浮かれて、我を失う。ありとあらゆる自分が知ってきた雄弁術を駆使する。身体中の血管に甘美の熱気が広がる。対して、マノンは、困惑した様子もなく、グリューの気持ちをすぐに察知した。なんと男慣れした女性だろう。2年後、マノンは18歳になっていることから、この時点でのマノンは16歳である。あぁ、運命とはいかに残酷で美しいものか。僕が彼女と出会うには一年早かったのだ。太宰が称する処女の年齢が16歳であり、Sound of musicでの少女も16歳である。” I m  a sixteen, you are seventeen.”と甘美なメロディがあなたの脳裏に鳴り響くであろう。もちろん、年齢を比較すると、痴人の愛のナオミが譲治と会ったのが15歳の時だし、若紫が源氏とむすばれたのは14歳だし、マリユスが恋した時のコゼットも14歳だ。ドロレス・ロリータは12歳の時に見初められた。
マノンとグリューはすぐさま恋に落ちた。人目を憚らず愛撫をし、愛情表現をふんだんに利用する。
マノンは才気溢れる、心根がよく、優しく、美しく、素晴らしい女性である。

この時から、一人この物語の重要なファクターであるティベルジュがグリューの友人として存在している。グリューをティベルジュがどのように思っているかも重要な事だ。僕にはかなりホモセクシュアルな人物に見える。

二人は、アミアンからサン=ドニに駆け落ちし、世界を知らない二人は、裕福に暮らす。
そのうち、お金が尽きてきているにも関わらず、マノンの身なりは美しいままであり、近くのB氏とマノンが不貞を働いており、そちらからの援助であることがわかる。マノンはB氏と協力して、グリューを家族の元に返してしまう。
なんという悲しい事だろう。グリューは悲しみに打ちひしがれ、六ヶ月の監禁を受ける。
裏切り者マノンに対して、憎しみが襲い、許さないと罵詈雑言を唱える一方、愛情も見せる。彼女さえいれば、他の何もいらない。キリスト教の神父のように生活することが良いと諭され、”思慮深く、キリスト教徒としての人生を送るようにしよう”と心がけるもこれには、マノンが必要なんだと考えてしまうほどである。
もう死んでしまおうとも思うが、ひとえにそこから救ってくれたのは友人のティグリジェだろう。

この監禁時代に彼が読んだ「アエネーイス」第4巻を参照したい。

そして、2年間、なんとかマノンを忘れることができたかのように勉学に励んだグリューは、聖職録にも記録され、パリで名を知られるようになった。
そこで、マノンは彼に会いに行ってしまうのである。もしかしたら、何人かの読者は、マノンが尻軽女に見えるのかもしれないが、僕は、マノンの言を信じる。
その時のマノンは、グリューには、繊細で、優しく、愛の神そのものであると評される。
愛の神というと、やっぱりはじめにパッと頭に浮かぶのは、ヴィーナスだろうか。

マノン「自分の裏切りのせいであなたに憎まれるのは、当然の報いです。」
マノン「でも、少しでも、私のことを好きなら、2年間もの間、私の消息を知ろうとしないなんてあまりにも冷たくないでしょうか。」
マノン「今も言葉の一つもかけてくださらないなんて」
グリュー「不実なマノン!裏切り者!裏切り者!」グリューは声を荒げてマノンを罵倒する。
マノン「不実の弁解をしようとは思いません」なんと潔いのだろう。浮気をしたことは真実なのか、あぁ、僕はそれでも、そう言ってほしいわけではないのだと思う。
グリュー「それなら、どうしようというのだ」
マノン「死のうと思います。」マノンは言う。「もしあなたの心を私に返してくださらないのなら。あなたの心なしでは、私は生きていけません。」
グリュー「それなら、僕の命をよこせというのか!そういうがいい。僕が君に捧げることのできる、ただ一つのものだ。なぜなら、僕の心は、いるだって君のものだったのだから」

弁解はいらないのです。愛が欲しいのです。
この点が、この物語では、終始徹底されていると僕は感じている。これからそれを立証していくのだ。つまり、マノンは裏切ることと享楽に溺れることは多々あるが、根本はグリューを愛しているのである。真実はもちろんわからない。人によっては、マノンは口だけなんだろうと存外な仕打ちを与える人もいるだろう。しかし、僕は、ことさら愛に限っては、等の本人たちが勘違いしているのであればいいと思うのだ。浮気をしてもばれなければいいというちんけな発想ではない。浮気をされても、愛する女性から、それでもあなたが好きと言われれば、僕はそれを許してしまうのだ。

マノンは、グリューの絶対的な支配者である。マノンはこの時点で貞淑を誓う。

グリューは、愛が故に許している。しかし、もちろん、かといって、貞淑を信じれるものではない。裏切りが心に与える影響は計り知れない。

マノンは、"被造物としては、あまりに素晴らしすぎる。勝利に輝く歓喜に心を奪われていく。君のために栄達も名誉も失おうとしている。君と一緒でなければ、どんな幸福も取るに足らない”
僕は、これを愛という。

きわめつけは、マノンのグリューへの発言である。
「Bといても、楽しいことは何もなかったわ。心のそこは、あなたの愛の思い出と、自分の裏切りへの悔恨しかなかった」
これだけを僕は、求めているのだ。つまり、愛されたいのだ。
僕の愛するヘプバーンも言っている。「愛されたいの。愛しているのだから。」

そうして、二人はシャイヨに住み始める。資金は60000フラン。しっかりした質素な生活なら10年は持つであろう金額だが、マノンは案の定、享楽に夢中である。呆れるけど、僕は女性はこれでいいとも思っている。好きなことを好きなだけさせてあげたいのだ。

ここで、マノンの兄が登場する。
マノンにせびる意地汚い兄。だが、それは、フランスの当時の(いや現在もそうだと信じたいけど)不貞に対する嫌悪感の現れだ。
兄「たとえ、一番愛する男のためとはいえ、女としての道を踏み外したのだから、自分が妹と仲直りをしたのは、もっぱら、身持ちの悪い妹を食い物にしてやろうと思ったためだ」

シャイヨの悲劇。家が燃える。
また無一文になるグリュー。金がないとマノンをつなぎとめることができないのは承知している。

2018年3月3日土曜日

マノン・レスコー①


マノン・レスコーは、アントワーヌ・フランソワ・プレヴォー(1697-1763)によって1732年に作成された恋愛小説である。 
僕が最も愛する書物の一つである。しっかり考察するため、マノン・レスコーについては、何度かに分けて考察したい。
初めて読んだのは、僕が大学2年生、19歳の時。神戸市立図書館で、研究の合間・授業の合間の平日に行ったのか、それとも休日に行ったのかは覚えていないが、世界文学を読むという簡単な説明本に書いてあった、マノン・レスコーを読んでみたいと思い立って、蔵書を検索したのが初めだ。
蔵書は1階の通常のスペースには置かれておらず、書物庫からわざわざ持ってきてくれたマノン・レスコーはとても古く、大体A4版くらいの大きな黒い図鑑のような本だったように思うが覚えていない。
窓際の日が差し込む席に座り、ぼくはその本をペラペラとめくり始めたのだ。気が付いた時には夕方になっていた。熱中し、その時に一気に読んでしまった。
理想の女性がそこにはいた。
僕には、マノン・レスコーが理想だった。マノン・レスコーは、高校生の時に愛していた彼女とものすごく類似しているように感じた。それ以降も僕は、マノン・レスコーが女性像のイデアだと考えている。
さて、好きな本が何かと友人に聞かれることが多かったため、僕は、マノン・レスコーを当然のように紹介したのだが、それは僕が読んだ本ではなくて、新潮文庫であった。僕は新潮文庫のマノン・レスコーを読んでいなかったため、自信を持ってオススメをすることができなかった。なんとなく、中身を眺めると、なんとなく異なった印象を抱いていた。
いつか、神戸市立図書館に眠っているマノン・レスコーと同じものを購入しなくてはならない。その心持ちで生きてきた。
2018年1月7日、三ノ宮にある紀伊国屋書店で、カフカの変身と、ホフマンのくるみ割り人形を探していた。光文社文庫の古典新訳シリーズの装丁が気に入っていたから、それを買おうかと思案していた。
そこで、見つけたのが、マノン・レスコーだった。驚くべきことに、第一版は2017年12月20日出版だった。これは買うしかない。そして、今に至るわけである。
本を再読するという経験は僕はほとんどない。勉学になってしまうことが多いからだ。
しかし、この本は再読の価値がある。まだ途中ではあるけれど、ことこまかに評価したいと心から願っている。

書くということについて

書く内容について、特に言及していきます。
内容について。
論理的に道筋を立てて、ここでいう論理的という言葉はまやかしみたいなもので、僕は「論理的にいうと正しいと思う」などと能書きをたれる輩は信用していません。どんなふうに論理的に考えたかという論理的の内容が重要なはずです。というのは、人を説得したり科学をする場合には、皆、絶対に、個人的にできる範囲の論理的思考を展開しているからです。そのため、「論理的に考えました」という文言は至極当然極まりないことなので、そもそもそれを述べる必要性もありません。もちろん、全く論理的に考えず直感的に話をする人に対しては、論理的に考えてくださいと指導することは絶対的に必要と考えます。
話が逸れましたが、論理的に道筋を立てて論理を展開した場合、その内容は、前提の真偽が変貌することがあるかもしれませんが、仮言命題と仮言命題への認識が一個人の中で変化することはなく(本当にないのか?)、それゆえに導き出される結論は同等のものであってしかるべきです。もちろん、前提が覆ることがそもそも大いにあることなので、それはなぜかと考えると前提・公理を証明することがそのシステム内ではできないが故です。反例が見つかれば前提は覆るということになります。思考形態に即して考えても、僕らはある前提から思考をスタートさせ、それを前進させていくわけですが、論理的に考えていても、また違う時間・違う場所で考えると違う結論になるのは、前提や仮言命題に対する意識が異なるからなのでしょうか。
哲学は、少なくとも僕が教えを受けた哲学では、「前提から一つ一つ進むものだ」ということを学びました。これは、宗教とは違うと。宗教は前提から論理が飛躍するのだと。しかし、この論理の階段は実は簡単に崩れ去りうるものだということもご了承いただかないといけないのです。すなわち、AだからB、BだからCが成り立つという前提は、どこまで説明できるのかということになります。その穴を埋めていくのが科学でしょうか。
とは言っても、書く内容については、全く論理的に展開されないこともあります。思いのままをそのまま写す場合です。恋文と同等とされます。熱烈な恋文は、論理性が全く存在せず、自己矛盾を孕み、飛躍や迂遠な言い回しなどが多用されています。これは、ルソーのエロイーズの冒頭にも記されていることで、僕はその通りだと思っています。恋や愛は論理性を有しておらず、なぜ?という疑問に答えることができないのがその特徴です。論理は重要である一方、愛の方が魅力的で、恋文のように、非論理的で感情的な文章がより人々の心を掴むものですが、この内容は刻一刻と変化をする生き物のようでもあり、故に、直感的に書かれた内容に対する自分の考えが、一ヶ月後、一年後に書く内容とは異なっているだろうことは容易に想像されます。
さて、この場合、一年後に書く文章の方が、素晴らしいのでしょうか。もちろん、技法は進歩するかもしれません。しかし、思考内容の優劣を誰が決めれるのでしょうか。老人は老人の、青年は青年の、少年は少年の思考を表現することができるのではないでしょうか。素晴らしさの定義もなく、それは現代の権威が考えているだけではないでしょうか。そう考えると、直感的文章の手直しはあまり良くないことなのかもしれないと感じます。
上記の論述は、論理的文章の際にも考慮する必要があると考えます。すなわち、論理的に書いたはずの文や論理的に書かれたはずの文が自分の思考と異なっている場合、それは前提への理解が異なっているか、それとも仮言命題への理解が異なっているのかを認識する必要があると考えます。

マノン・レスコー②

冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。 ...