2018年1月8日月曜日

ティファニーで朝食を


トルーマン・カポーティ. 1950年

カポーティは、早熟の天才と評されたアメリカの作家。21歳でO・Henry prizeを受賞する。「ミリアム」という短編だ。
若輩のぼくが評価するのは忍びないけれど、「ティファニーで朝食を」にせよ、「ミリアム」にせよ、カポーティは直接的に哲学的な問いに答えようとしている。
ホリーが愛について語るシーン(p129)、生き方について考えるシーンなど登場人物に語らせて答えを得ようとする。それも、ホリーは放埓だから、会話は突然に終了する。本当に突然に。
ぼくは読みながら彼女の会話に心を奪われていく。綺麗なリズム。スイスイと読むことができるのはカポーティの功績か村上春樹の功績か。村上春樹があとがきでカポーティの文章は「リズムにリズムを重ね、素晴らしいセンテンスを作り上げる」と書いてあるので前者なのだろう。
ぼくは彼女に惹かれていく。残念なことに、ホリーが映画のオードリー・ヘップバーンに重なるのは否めない。
カポーティは初めヘップバーンに演じて欲しくなかったようだが、ぼくはオードリー・ヘップバーンでも特に問題なく演じているのではないかと思う。もちろん、ご存知の通り、映画と本の流れや結末は合致していない点が多いのであるが。
ティファニーというだれでもが知っている(本当に1950年代アメリカで知られていたのかはわからないが)有名ブランドをタイトルとし、ホリーのティファニーに対する思い入れ(そう。ここが面白い。ミリアムと同様、ここは彼女自身の精神である。)がそのまま主人公の心の中に移動している印象を受ける。
映画では、ホリーが愛する人が誰かということは不明だ。まやかしなのか。
ホセに惹かれ結婚を考えていた、真実の愛を唄っていた彼女が、裏切られたことで主人公への愛に気づいたという流れが映画だが、これは、正直嘘くさい。ありきたりの結末で面白くない(もちろん、元ネタが「ティファニーで朝食を」で多くの作品がオマージュしている可能性はある)。
それよりも本の流れで彼女は幸せになったのか?名前を得たのか、読者の想像にお任せする方が話が膨らみやすい。
猫に名前をつけることができず、互いに所有されることを拒んでいたにも関わらず、最後には共依存していたことに気づく彼女は僕らに似ている。彼女いわく、「私はなくなってから、なくしたものが大事なものだということに気づく」らしいが。

不思議なことに僕たち(人間?)は、人との関わり合いの中で実存を確認しているはずなのに、人との関わり合いでは人はそれほど自分自身を共有させることが苦手だ。
本という一方通行性のメディアに対しての方が人は関わり合いを持ちやすい。感傷を抱きやすい。
つまり、本というメディアから一方向性に情報を共有させられ、読了後は一方向性に本に対して思いを抱く。その後、他の人と話し合ったりすることで自己の意見を共有したりするように見える。が、本の内容という他者の思想をこねくり回しているだけで、本来の自分自身を共依存させようとする気はなさそうだ。
しかし、かといって、自分自身を共有させないからといって他者を共有しないとなると寂しいという感情が渦をまく。
猫は喋らない。それでも、ホリーがお互いの所有物だということがわかったように、僕らも言葉を持たないものでも共依存することがあることを肝に銘じるべきだと思う。

さて、「冷血」を次に読もう。
「冷血」は優れたストーリー・テラー出会ったカポーティが作成した「ノンフィクション・ノベル」である。社会の評価は、少年は大人になるということでいつまでも神童ではいられないということだ。
物語を紡ぐ時、人は無からは創造できない。創造のタネがいる。それが大人になるにつれなくなっていく。
「ローマの休日」で見られるように新しい出会いは興奮と想像の芽を生やさせるが、見慣れた景色からは何も生まれない。
僕らも見慣れた景色にうずくまってはしないか。
日々の日常業務からは何も生まれない。
新しい視点・視野が必要だ。

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