2018年3月3日土曜日

書くということについて

書く内容について、特に言及していきます。
内容について。
論理的に道筋を立てて、ここでいう論理的という言葉はまやかしみたいなもので、僕は「論理的にいうと正しいと思う」などと能書きをたれる輩は信用していません。どんなふうに論理的に考えたかという論理的の内容が重要なはずです。というのは、人を説得したり科学をする場合には、皆、絶対に、個人的にできる範囲の論理的思考を展開しているからです。そのため、「論理的に考えました」という文言は至極当然極まりないことなので、そもそもそれを述べる必要性もありません。もちろん、全く論理的に考えず直感的に話をする人に対しては、論理的に考えてくださいと指導することは絶対的に必要と考えます。
話が逸れましたが、論理的に道筋を立てて論理を展開した場合、その内容は、前提の真偽が変貌することがあるかもしれませんが、仮言命題と仮言命題への認識が一個人の中で変化することはなく(本当にないのか?)、それゆえに導き出される結論は同等のものであってしかるべきです。もちろん、前提が覆ることがそもそも大いにあることなので、それはなぜかと考えると前提・公理を証明することがそのシステム内ではできないが故です。反例が見つかれば前提は覆るということになります。思考形態に即して考えても、僕らはある前提から思考をスタートさせ、それを前進させていくわけですが、論理的に考えていても、また違う時間・違う場所で考えると違う結論になるのは、前提や仮言命題に対する意識が異なるからなのでしょうか。
哲学は、少なくとも僕が教えを受けた哲学では、「前提から一つ一つ進むものだ」ということを学びました。これは、宗教とは違うと。宗教は前提から論理が飛躍するのだと。しかし、この論理の階段は実は簡単に崩れ去りうるものだということもご了承いただかないといけないのです。すなわち、AだからB、BだからCが成り立つという前提は、どこまで説明できるのかということになります。その穴を埋めていくのが科学でしょうか。
とは言っても、書く内容については、全く論理的に展開されないこともあります。思いのままをそのまま写す場合です。恋文と同等とされます。熱烈な恋文は、論理性が全く存在せず、自己矛盾を孕み、飛躍や迂遠な言い回しなどが多用されています。これは、ルソーのエロイーズの冒頭にも記されていることで、僕はその通りだと思っています。恋や愛は論理性を有しておらず、なぜ?という疑問に答えることができないのがその特徴です。論理は重要である一方、愛の方が魅力的で、恋文のように、非論理的で感情的な文章がより人々の心を掴むものですが、この内容は刻一刻と変化をする生き物のようでもあり、故に、直感的に書かれた内容に対する自分の考えが、一ヶ月後、一年後に書く内容とは異なっているだろうことは容易に想像されます。
さて、この場合、一年後に書く文章の方が、素晴らしいのでしょうか。もちろん、技法は進歩するかもしれません。しかし、思考内容の優劣を誰が決めれるのでしょうか。老人は老人の、青年は青年の、少年は少年の思考を表現することができるのではないでしょうか。素晴らしさの定義もなく、それは現代の権威が考えているだけではないでしょうか。そう考えると、直感的文章の手直しはあまり良くないことなのかもしれないと感じます。
上記の論述は、論理的文章の際にも考慮する必要があると考えます。すなわち、論理的に書いたはずの文や論理的に書かれたはずの文が自分の思考と異なっている場合、それは前提への理解が異なっているか、それとも仮言命題への理解が異なっているのかを認識する必要があると考えます。

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