2018年1月16日火曜日

考え方


たまに、啓蒙本を読んでみるんだけど、啓蒙本の有用性を感じたことはない。
啓蒙本は宗教と似ている。根拠だとか実験で証明したなどを最もらしく述べるのでタチが悪い。
それなら、「この本は僕の経験に基づいているので科学的に立証してない。だけど、読者も共感して行動してくれたら嬉しい」と書いておけばいいと思う。    
僕の文章はとても読みにくい。文章の中に生じる省略を極力省こうとしてしまうから。
それはつまり、英文でitを使わない文章のように。

啓蒙本は、多くの場面で役に立つ。役に立つが真実ではない。
真実を本は語ることはない。そこに記されていることは歪曲した解釈だけだ。
事実はそもそも誰かの目を通される時点で歪曲されている。この命題をなんというんだっけ。リンゴが落ちたことを認識していなければ、そのリンゴは本当に落ちたのだろうか?
シュレディンガーはネコが二匹存在することを示した。
量子力学にそうと、確率論に従い、つまり、ネコは50%の確率で死んでいて生きている。
僕らは絶対的に正しいことが存在していると信じられている(わざわざ婉曲に表現してみた)医療という場面にいるが、医療は正しいという概念はない。「らしさ」はその人に起こっていることを直視して生じることではなく、誰が起こっていることを語るかということによって表現される。

ある意味で僕の素晴らしき教師(人はこれを反面教師というのだけど)は、診察をしない。問診もしない。もちろん少しはする。しかし、ほとんど(ここも100%ではないことに留意すべきである)適切な診断を下し、適切なマネージメントをする。なぜか?
これは、医療の世界が驚くほど限定された世界だからである。
医療技術の進歩により、不必要な検査をすることが求められる。近年の優れた業績は、この進歩にコスト・パフォーマンスという概念を導入しているのが最早常識であるはずなのだが。ガイドラインという「画一した治療を」目指した結果、誰にでも、そう、それこそ看護師にも患者本人にも老若男女問わず、画一した治療をその人たちが実践できるように、ガイドラインは想定して策定されている。たったいくつかのキーワードに従った単純なアルゴリズムにより治療は遂行される。もちろん、現状、同様の結果が返ってこないことは多々あるが、「経験豊富な」医師が行った結果は「正しい」か、「仕方がなかった」出来事となる。つまり、誤診をしていても、「経験豊富な」医師の発言はそれだけで権力を持ち、誤診をしていても患者に悪影響がなければ、「現代のシステムでは」「仕方がなかった」と済まされる。
これに応答して、遺伝子検査など「誰が見ても」一つの結果と決まる検査が台頭してきた。この理論に従うと「経験豊富な」医師が誤診をする機会が露呈したかというとそんなことはなく、遺伝子検査もルーチンに行われるようになり、つまりアルゴリズムに内包された。
さて、なぜ、こんなことが起こるのか?
答えの一つに情報へのアクセシビリティの高さがある。
キーワードを認識することさえできれば(これはものすごく重要)、後のマネージメントを間違えることはない。
キーワードの認識の間違い、選択の間違いによって物事は間違った方向に進む。このことは多々ある。
例えば、「発熱」のキーワード「だけ」だと考え、肺炎・尿路感染症と診断し、抗生剤加療を行う医師に対し、「発熱」に「関節痛」が加わった時、偽痛風を想起することは簡単である。
難しい問題は、関節痛の認識が難しい場合にどうするかという問題である。つまり、そんな偽痛風はあるのか?ということ。
これはいつも判断が難しい。
関節痛がない偽痛風が仮に存在するとして、それは、マネージメントをしないといけない状態なのかということである。つまり、誤診してもいい、ということになる。
逆に、咳・痰のない肺炎がある。これを誤診すると死に関わるとなれば、キーワードの選択はほぼ無意味に等しくなる。
要するに、「発熱」というキーワードだけで、抗生剤加療をしておいたらとりあえず間違ってないといことになる。
さて、一つ疑問が生じた。
なぜ、教科書は正しく診断しなさいと伝えるのか?
診断することによる患者へのメリット(もしくは医療従事者へのメリット)がなければ、診断は不必要である。
仮に、「何にでも効く薬」があれば、診断をする必要ない。

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