2018年1月14日日曜日

火花


火花
又吉
2018年正月の芥川賞鑑賞会第5作目

ものすごく話題を呼んだ、又吉の火花。
ミーハーと思われるのが嫌だから、読んでなかった本。そもそも、二足のわらじは型落ちで、結局のところ中途半端な出来だろうというのが個人的な見解なのだ。
器用貧乏よりも特殊能力の方が好きだから。

医師と何かという二足のわらじはすごく多い。が、僕はどれも快く思わない。
二足目、いやいや一足目から二流だから。
ダヴィンチや他誰か知らないけど、昔はまだまだ二足履くことが出来た。もちろん、町医者と天文学者でも二足と言われるだろうし、実際に自分で評価したわけではないし、何かを発見研究してても、それしかないのであればそれはわらじじゃなくて、一時的に履いただけでしょうと思っている。
森鴎外だってルイス・キャロルだって、いや、彼らを引き合いに出すのはよそう。僕は彼らの批評をするほど彼らを知らないから。テレビに出ている医師・医学者として突出してもおらず他のこともしています、すごいでしょうは通じないのではないかと思っている。
なんなら、今の僕が、他の職業になれば、二足のわらじになる。なんて愚の骨頂ではないか。医師としてすら、何も突出していないくせに。
じゃあ、どこまでいったら二足のわらじというのか?
僕の中では、世界的に評価されて初めてだと思う。ノーベル賞をとったら、オーヘンリー賞をとったら、フィールズ賞、アカデミー賞をとったら。今の世の中はわかりやすい評価がある。それが正しい保証はない。もの・ことに対する賞は信憑性がない。だって、それは、一時期のことだから。ひとに対して与えられる評価がよりよい評価だ。
芥川賞??だから何?という感じ。と言いながら、「じゃあ、お前が取れよ」という声が聞こえる。おっしゃる通り。もちろん、又吉はすごい。それは揺るぎない。ただ、僕がいっているのは、ベストではない、天才ではないということだけ。

さて、そして、この火花だけど。
はじめと、最後に花火が出てくる。火花と花火は大きく違う。
神谷と主人公の徳永の二人は火花なんだろう。光って消えるのだろう。
自伝的な物語なので、又吉の評価は保留にしないといけないだろう。この作品は非常に又吉だった。
基本的に、思想が一つだった。その思想を強化するために同様の二人がいた。
笑いということに対して、純粋に考えることができた。
考え方がとても、しっくりきた。自分に似ていた。

いくつか記録
"それを最初に始めたものだけが個性であり、それ以外は模倣にすぎないのだ"
”「気楽に好きな事をやったらいいんちゃうか」「趣味やったらね。趣味やったらそれでもいいとおもうんですよ。でも、漫才好きで続けたいなら、そこを怠ったらあかんでしょ」”
“誰かには届いていたのだ。少なくとも、誰かにとって、僕たちは漫才師だったのだ”
"絶対に全員必要やってん”

どれも、心に響く。そして繰り返しの技法を使用しており、心に残りやすい。ただ、押しむらくは、登場人物が又吉に言わされていたように感じたところ。必然性がなくその話が出てきていたところ。そこが残念に感じた。なんとかして、その偶然の必然性を生み出す方法を知りたい。

徳永の考えを述べるところもそう。僕も同様の技法を使用したがるが、でも、それは、徳永が言っているのではなく、又吉が言っているのでしょう。という感じだった。サルトルの嘔吐も小説であり思想本だから、そういう形もありだ。僕は肯定します。
とにかく、又吉の二作目に期待。どんな小説になるんだろう。。

ちなみに、僕のこの物語の印象は、「僕らがやりました」だった。

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