2018年1月12日金曜日

男と女


男尊女卑と男らしさ女らしさ
社会的役割について男女で区別することは別の意義であると主張したい。

ファッションの話、男性化粧品、アイライナーなど、女性のための化粧道具が男性も使用しうるものに変化しつつある。

その中で仕事においても男性を尊重する傾向が減少し、女性を登用する試みも多い。
進学校の男女比はほぼ1に近づきつつある。
これは福音か。
残念なことにそれでも日本の男女平等は世界水準とは言い難い。2016年の世界経済フォーラム(WEF)の「ジェンダー・ギャップ指数」は日本は144カ国中111位だった(http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF25H07_V21C16A0EE8000/)。
 
女性に求められる仕事、男性に求められる仕事、それらを両性具有のようにどちらも行えると考えることはおかしくないの?と思ってしまう。少なくとも自分は男尊女卑ではないと思うのだけど。

酒場でも同様のことが言える。
人には人の役割がある。
人は皆ロールプレイをしているのである。母親は母親の役割を演じ、父親は父親の役割を演じる。それは環境がそうさせるものであって、個人個人はその時々で本人の意志であると感じるが本人の本質を示すものではない。

女性はお酒を注ぐべきなのか、サラダを取り分けるべきなのか。
結論はどちらでもいい。
どんな場合でも状況により異なるため、命題をより詳細に記載しないといけない。つまり、「恋仲でない男性と女性が二人で食事に行った場合、女性が男性に気があるのであれば、女性はサラダを取り分けるべきなのか」である。

日本語は常に主語が省略される傾向にある。特に、文が連なる時に省略される傾向にある(この一文も省略している)。
英語であれば、
When a man and a woman who are not  partners each other are eating a dinner together, should she dishes out for him, if she loves him?

役割を担うことで個人個人の内情を吐露することも可能である。
「これは俺がやる」と男が荷物を持つ時、男は夫としてのロールプレイの他、「かっこいい」「できる」男としてのロールプレイを行なっている。逆説的に、荷物を持つということが「できる」人として同等の意義を持つ。できる人をアピールしたいのであれば、荷物を持ちなさいということだ。それはつまり、全てに通ず。「優しい人」と同等の意義をもつ行動は何か、もちろん、「優しい」「かっこいい」「できる」など抽象的でありそれぞれの人によって定義が異なる事柄の場合、個人個人にとっての「優しい」に焦点を当てなければならない。例えば、足が悪い人の立位を助けてあげることは優しさなのか、数学の問題の答えがわからない人に答えを教えてあげることは優しさなのか、仕事が遅い人の仕事を代わりにすることは優しさなのか、優しさとは相対的、抽象的なものであり、TPOに従い簡単に変化するものであることに留意しなければいけない。これはものすごく難しい。   

言葉に変換することで多くの情報が失われることにも注意を払うべきである。
「百聞は一見に如かず」、経験論を絶対的に信用している多くの人(これは殊更医師には多い。これをexperienced based medicineと言う。)は、経験の少ない人の経験を軽視し、自分の少ない経験を軽視する。


0 件のコメント:

コメントを投稿

マノン・レスコー②

冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。 ...