2018年1月18日木曜日

本の「使い方」


本の「使い方」
出口治明


著書は、本が好きなおじさんの話に思える。著書内にもあるように本はその著者との対話であると言っている通り、この人が本が好きで、それで、こんな風に生きてきたよ。と言っているようである。

幼少期から本の虫だった出口さんは、年齢を重ねても本の虫であることは変わりなく、生涯本から教養を得ている。

実家では、世界名作全集や日本名作全集が揃っていた。しかし、それらは暗い納戸にしまわれており、日の光を浴びることはほとんどなかった。家族の誰もそれらの本を開いているのを見たことがない。窓のない2畳ほどの狭い空間に3つのタンスと1つの本棚がしまわれており、その本棚に百科事典や名作全集がしまわれていた。小学生の時、僕はその納戸で地べたに本を広げて読んでいたのを覚えている。イソップ童話に含まれる「北風と太陽」、「犬が川に映った姿を他の犬と思ってわんとほえたら口にくわえているパンを落とす話・・・なんだっけ?これ」「ろばが荷物を運んでいて水を含ませたらものが溶けて運ぶのが楽になったから、違う機会にもう一回水につけたら水を吸って重くなってしまう話・・・これも題名がわからない」から、「海底2万マイル」。とても面白く、これから多くの海の生物を調べたことを覚えている。また、昆虫も好きで、「ファーブル昆虫記」を読み漁った。4年生の時には「ズッコケ三人組」シリーズがお気に入りとなり、図書館で借りてきてはしょっちゅう読んでいた。4年生の時のがんばりノート(恩師には敬服せざるを得ない)には「ズッコケ三人組」を題材にした物語を自作している。がんばりノートとは、恩師の先生が作成した自習であり、あるテーマを自分で選んで自学するという内容を小学生でも楽しいようにお店のメニューとして作成されたものだ。漫画もとても好きで、図書館で「銀河鉄道999」を借りて、家族は公園で遊んでいる時に、一人で車内で読んでいた。また、ドラえもんシリーズも読み漁っていた。血液中の白血球や赤血球について書いてある本も読んだが題名は覚えていない。また、当時はトキが絶命寸前という記事を読んでトキに関する本を小学校の図書館で乱読した。
中学生時代には本を読んでいない。おそらく、読んだのは乙一本くらいだろう。気に入ったらその作者の本はほとんどすべて読むようになっている。その他、記憶にあるのは、「バトルロワイアル」を授業中に隠れて読んでいたことくらいで、図書館に行く機会は多かったが、何を読んでいたかは覚えていない。この頃から、図書館に行く理由は勉強をしにいくことであり、読書ではなくなってしまった。
高校生時代、高校2年生と3年生の時の担任の先生に「どんな本が好きか?どのくらい本を読むか?」と聞かれ、「ハリーポッター」と答えた時に「もっと良い本を読みなさい」と怒られた。それから、「脳の中の幽霊」「死体は語る」を読み、そのおかげで今の僕がある(医学部進学のきっかけである)。「脳の中の幽霊」は高校2年の夏休み1ヶ月を使ってようやく読める内容だったが、とても面白い本だ。この本と肩を並べる本は大学生の時に読んだ「マノン・レスコー」ぐらいだと思っている(もちろん、現在は違う)。それから、親友の女性から多くの東野圭吾本を借りて読んだ。「ある閉ざされた山荘の中で」「白夜行」「幻夜」など、おそらく彼の著書は9割は読んでいる。彼は理系の考え方を持っていてそしてエロチックな点がとても興味深い作家だ。他には「アルジャーノンに花束を」も読んだ。その後、受験期を終え、絵画も見るようになった。大抵の図書館や図書室には絵画全集が置いてある。高校のころはピカソやブラックといったキュビズムの画家に印象を受けた。しかし、ピカソが初期に書いたキュビズムではない絵が好きだった。また、シュルレアリスムの代表であるサルバドール・ダリの「内乱の予感」が最も気に入った(ちなみに、正式名称は違う)。これは、アメリカのフィラデルフィア美術館に貯蔵された絵画であり、そのためにフィラデルフィアに大学6年のとき行った(しかし、見れなかった)。その恩師からは卒業アルバムに「理系にしてはいい文章を書いていた」と褒めていただいた。恩師の先生が近年文学賞を受賞したとかなんとか風の便りで聞いた。喜ばしい限りだ。高校2年生の時に読書感想文のようなものを書く機会があって、クラス全体で投票するのだが、僕の感想文は1票程度しか入っていなかったが、恩師の先生には褒めていただけて感激した。
大学に入学し、本を読む機会が少なからず増えたが、読破した本は少ない。生協の方に教えてもらい、「レベル7」「リアル鬼ごっこ」「9月が永遠に続けば」「ひまわりの咲かない夏」「半落ち」「空中ブランコ」「すべてがFになる」「ノルウェーの森」など多くの日本作家の本を読んだが、結局心に響いたのは森博嗣と村上春樹、東野圭吾だけだったように思う。それから、古典も著書に習い読んでいた。高校時代は倫理の授業でフロイトに感銘を受け、フロイトの「精神分析入門」を読もうとしたが、上巻の半分くらいで断念した。それから、「夢分析」も手を出したが読み切ることはできなかった。近くの図書館で名作を簡単に教えてくれる本を読み(題名は忘れた)、「若きウェルテルの悩み」「マノン・レスコー」「嵐が丘」「椿姫」を読破した。中でも「マノン・レスコー」が理想の女性に見え、今でも大好きな本である。
僕も、著者と同じく自己啓蒙本は買わない主義であるが、最近は薄れつつある。何事も試す価値はあると思っているからだ。
本大学医学部附属図書館では、図書コーナーの一角に世界名作全集と画家全集が揃っていたが、蔵書が増えるにつれ、そのコーナーはさらに隅に追いやられ、僕が最上学年となると、とうとう地下に影をひそめることとなった。これは非常に遺憾である。僕は、そのコーナーから「恋愛論」「赤と黒」を読んだし、「ソフィーの世界」もそこから読んだ。
著者の言う通り、古典は普遍的によい。これは本文にあるとおり、市場の競争世界で残ってきた本だからだろう。
仕事が始まり、否5-6年生のころから、本を読む機会がめっきり減った。平日・休日の時間のあるときは本ではなく、パソコンの前にいることが増えた。本のかわりに論文を読む機会が増えた。仕事上、必要な知識を論文から仕入れることが多く、本と言っても教科書の類を読むようになった。
僕の読書は、「好きなものからはいり、その分野を極めることである」ように思う。そして、読書は本のみでなく漫画が大きなウェイトを占めている。漫画は簡単にその分野の知識が入る。それが正しいかどうかはその後成書を読めばいいと思う。「テラフォーマーズ」「信長のシェフ」「バーテンダー」「ちはやふる」など、自分が全く知らない分野について教えてくれる漫画もあれば、「ワンピース」のように純粋に楽しいものも多い。人を成長させる因子は「出会い」であると思う。その出会いは話し議論をかわすことができる人そのものであり本であり映画である。
この姿勢を忘れず、好きなものに没頭する姿勢を忘れずに、これからも生きていこうと思った。

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