2018年1月8日月曜日

賢さとは


賢さとは何か。
これは、「学問のすすめ」を読んで至った考えである。
僕は、ハーバード大学留学中にハーバード大学生に同様の質問をしたことがある。
そこは、分子細胞生物学分野で脳神経について研究する部門であったからか、返ってきた答えは至極納得のいく答えだった。 
「賢さの定義が曖昧だから答えられない」

さて、賢さとは、記憶力がいいことをいうのか、計算能力が高いことをいうのか。
そのようなことを答えと考えている人は現在は減っただろう。記憶や計算はコンピュータが担う時代になってしまった。
そのため、人間に課せられた賢さはそれ以外で推し量る必要が出てきた。
「応用力」「実用能力」はどうだろう。
今あることを用いて他の人より(ここは相対的表現を使用してみよう)、早く効率的に行うことができるかどうかが賢さの基準としてみよう。
これは一つの賢さについて説明しただけで、賢さがこの応用力・実用能力だけとは思わないが。
応用力、実用能力の意義は、福沢諭吉が説いた実学に通ず。
実学とは、現実社会に役に立つことを目的とする学問である。
しかし、この考え方も時代の変遷に従い変えていかなければならない。
とりわけ、医療において、病気を治す時代から病気を発症させない時代へと変化していきた。
発症させない治療方針は実利を伴いにくい(現実には歴史的レビュー(historical review)に照らし合わせて効果の有無を判断できるのだが、無知な患者には実利を伴っていることが実感しがたい)。
そして、このような実学、実利はその状況によって変貌することに留意してほしい。
僕は中学生の頃から考えていたことであるが、その場面場面に応じて必要な能力は変化することに気づいていた。
それはつまり、テストにおいては、英数国理社の勉強をして理解している人が賢いということになるが、バスケットボールをしている時には、バスケットボールのシュートがよく決まる人が賢い(うまい)ということになる。休み時間におしゃべりをする場面では、昨日のドラマに出てくる俳優を知っているかどうかが賢さの基準であるし、ミュージックステーションで新曲を聞くことが重要となる。井戸端会議では芸能人や身近な人のゴシックネタをどれだけ知っているかが賢さの基準であるかもしれない。
全てに通じている人はどの領域においても賢いということになるが、そのような人は存在しない。
全知全能は存在しない。全知全能は存在しないことの証明はネットにたくさん転がってるのでぜひ参照していただきたい。
そのため、賢さを定義する時には、どの領域・場面においてという前提をおいて賢さを議論する必要がある。
これは、僕は論文や臨床において問題提起をする時に考えることである。周知のPICOのうち、Pをより理解することが大事である(嘆かわしいことにほとんどの若輩者においてこのPは軽視されている)。
何が言いたいかというと、ある部分の領域・場面ではどんな人も一番賢くなることが可能だということである。また、逆に言えば、どのような分野でも自分が最も得意とする分野以外ではより賢い人がいるということだ。
僕は、これは、限りなく小さな領域についても同様のことが当てはまると思う。例えば、Aさんに薬を投与するにさしあたり、どのような効果が出てくるかを考えるときに、経験豊富な医師よりも経験は未熟だが、週に一度しか患者を診察しないお偉い教授よりも、毎日、真摯にAさんを診察し、検査所見を文献、これまでの臨床経験、同僚や上級医の臨床経験、相談などを含めて、吟味した研修医の方が薬の効果の推定が正確であるだろう。
僕の大学のカンファレンスでは賢さを「学び」におく傾向が強かった。学生であれ研修医であれ、よく学び、調べ、検証し患者に当てはめた理論は尊重された。天は人の上に人を作らない。ただ、学びを続けたものを上におく。
賢さは年齢や学年、知識量、記憶力などにはよらない。賢さを規定しているもっとも大きな因子は、その分野における熱意と献身である。もちろん、これは、勉学に励まない人が勉学に励んでいる人よりも知識がないからといって熱意があるから賢いことにはならない。パラドックスのようであるが、熱意がある人が、そのほかの熱意がない人と比べて賢くなければ、それは、僕に言わせれば、熱意が足りていない。熱意とは主観的なものであり、客観的に評価ができない。そのため、僕が心エコーに興味がなくほんのさわりしか知らなくても、その興味以下の熱意と献身しかない人よりもエコー技術が高く、評価することができる。つまり、賢いと言うことだ。

しかし、そうはいっても賢いと思われる人はいる。
なぜ、賢いという人はいるのか、僕は、賢い人は賢い人からよく学んでいると思う。
学ぶ領域は多岐にわたる。医学に限れば、教科書から、同僚から、論文から、学会から、そして当たり前のように患者からである。そのほか、医学のみならず、新聞、ニュース、本、漫画、絵画、音楽、スポーツ、家族など、多くのカテゴリーから学ぶことができる。

周りを見てほしい。賢い人から本当に皆学んでいるだろうか?
学ぶ場面を自分で限ってないだろうか。学生の時に勉強会を嫌がり学ぶことは上の先生からのレクチャーのみと考えている人がいた。これではいくら勉強しても賢くはなれないだろう。
あなたの周りも年功序列になってはいないだろうか。
自分は賢くないからと教えることを放棄していないだろうか。スピーチという概念が日本に浸透し、誰もがスピーチを気軽にできるようになったことで、順位づけがされていないだろうか。
もちろん、スピーチの内容も考慮する必要があるが、その分野では一番の知識を得ているという自負を持って話すことができるだろうか。スピーチの有用性については、スティーブ・ジョブスの例を見れば簡単に理解できる。彼をあそこまで押し上げたのはスピーチに他ならない。また、福沢諭吉も学問のすすめの中でスピーチの重要性について言及している。

賢さを得ることはどの分野ということに幅を狭めれば難しいことではない。
ポケモンの名前と技を全て言うことができるだろうか。その点のみで言えば、その辺にいる小学生は自分より賢いのではないか。
なぜ、自分を過小評価するのか。熱意と献身を何にも持たない人間など存在するのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

マノン・レスコー②

冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。 ...