2018年1月8日月曜日

スクラップ・アンド・ビルド


羽田圭介

2018年正月の芥川賞読書会第4作目

帯には、「慣例、常識、価値観の違い。最近すごく考えます」と。

「死にたい」と常々口にする爺を介護する無職の主人公28歳。
主人公は、爺が健やかに死ねるように肉体が衰え、脳が衰えるような介護をしようと決意する。
一度、心不全に伴う肺水腫になり入院するも、軽快する。最終的には特別養護老人ホームへの入所を決定(入所する前)し、主人公の就職先が決定し、二人は離れ離れになる。
死に向かう爺と、これからも生き続ける若い主人公。その違いを主人公は常々意識している。

さて、一般論。
おそらく、生きていることが一番大事だよ、生命が第一に決まってるという大衆の愚鈍な意見の中で、この作品はいやいや人間死ねばいい人間もたくさんいるよと提唱しているところに、価値観の違いを見せつけているのだと一般的には解釈するのだろう。
行なっていることからすると、息子は介護を頑張っているが、真意は早く死んでくれた方が世の中のためだと考えている。
そんなこと、この現実社会ではいうことはできないでしょ?すごいでしょ?オリジナリティ溢れるでしょ?どう?と。

死というターニングポイントは現在社会ではかなりあやふやになった。というのが、これまでの古い世界とは違うことを意味するよく耳にする一文だ。人工呼吸器がその一助を担っている。しかし、僕らの中では、それは、最終的に本当に死ぬ瀬戸際の時のことを細分化しただけであって、おそらく、その段階に一般の方が直面すると死んでいると同義だろうと思う。
なぜなら、彼らは、実の両親や知っている数かぎりない人の死しか見ていないからだ。
その最終局面に至る前段階で、基本的には入院したり医療資源を得たりする。
そのレベルでは基本的には死へは直面していない。
つまり、元のように生活を営むことができるレベルまで改善する人が大勢いるということを知らない。
さて、この作品にあるように、生産性のない老人を排除することを考えてみよう。
そもそも、生産性がないということをどのように定義したらいいだろうか。僕は生産性があるのか?この主人公は?何を持って生産性というのか?子孫を繁栄させる能力か生活(誰の?)を向上させる能力か?
現時点の問題だけを取り上げればいいのか?
将来性を加味する必要があるのか?
つまり、現段階で生産性がなくても、将来的に生産性がある人物になる可能性がある場合、生産性をあると考えるべきなのか。この可能性はどの程度の可能性であれば、許容すべきなのか。
現実的に、どこからを老人と定義してどこからを生産性と規定するのか?
そう考えると、若い主人公もすぐに死刑の順番が回ってくるのでは?と思えてしまう。
十戒では「人を殺すこと」は禁じられている。死刑を反対する国も多い。
しっくりくる説明は人を殺すことをすると自分も殺されるかもしれないから人を殺してはいけない、という説明。
自分が殺されないと確信できるなら殺してもいいじゃないか。そういう暴論に至る。
まぁ、何が言いたいかというと、どこから排除したらいいか基準は非常に曖昧である。故に、どんなに不具合がある人でも死に至らせることに賛同を得るための基準の作成は難しいと思う。
そうすると、死の前段階、Frailとしましょうか、Frailの人は全員死ねと言いかねない。やっぱり、何を持って基準になるかわからない。

スクラップ アンド ビルドというタイトルであり、scrap and buildであり。
作中もなんども何度も繰り返される筋トレに示唆されるように、ダメにして、再構築することが書かれている。
大きな流れの中では、祖父をスクラップして子孫である孫をビルドするし、祖父の中でも、病気になってスクラップされ、改善していく。流れは常に同様のことを示唆していた。

感想としては、これに賛成の人も多々いるだろう。特に際立ってダメだ!ということを言っていないから。
存在の否定という点をどの視点で考えるかだ。

爺にもっと過去を与えた方が個人的には美しい物語になったと思う。あまり、この二人に共感できなかったからだ。

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