2018年1月6日土曜日

嘔吐


サルトルの嘔吐を読んで。 
7時。職場の机の上で。
通勤中に考えたことは全く異なる事象だった。
読書感想文のつもりでいつも書いているはずだが、今回に限っては、おそらく、自分自身の思考をたどることになるだろう。とはいっても、元来、思考を言語化するのは困難や齟齬が伴うので、全てが正しく表現されていると考えることはできない。
このことはつまり、思考は、誌上に記されたよりも多くの意味を含有していることに留意しないといけない。
まず、存在している物事について、目に見えるものは本来そこにあるべきものなのかという命題。

僕には愛する人がいるが、常にいるわけだが、その彼女の実存は限りなく薄い。というのは、僕の中にある、見えている彼女の像とおそらく本人の本質とは異なるから。それは、彼女自身の考えや思想をトレースすることができず、所詮は目に見えているもの、聞こえているもの、匂いなどでしか彼女を表現し得ないからだ。
彼女はそこに存在するのではなく、紛れもなく、僕自身の中で作られたものということになる。その虚構の彼女が先立ち、後をおって、実物の彼女が現れる。
果たして、本当に彼女は僕が見ているものとは異なったものなのか、そもそも、自分自身も他人から見られるものとは異なるものなのか。
言動一致しないことは人間としてごく自然だ。
これは、誰しもが納得することであろうから、すでに反証を反証されているという事実から、議論の余地がない。
言動一致しない(思考と行動はかけ離れている)という事実を意識すると、僕が見ている彼女と彼女自身の本質は大きくかけ離れているという推論も成り立つだろう。
そのため、目に見えるものは虚構にすぎない。
しかし、論点を変えると、視点を変えると、つまり、自分自身にとってという付加をつけることによって、虚構は真実足りうる。
 自分自身にとって彼女はこうであるべきだ。
 こうである。
もちろん、その真実は容易に瓦解する。
彼女の本質はその虚構とはかけ離れているからだ。
意志がないものについてはどうか。
 ペンがある。爪楊枝がある。本がある。これらは、正しく存在している。
特に理由もなく、いや、理由というのは、自分がそのものに追加した概念であって、そこにあるもの自体については意義はない。
思考も同様だ。そこに存在している。その思考を型作るために過去のとらわれが必要だとしても、今記載しただらだらとした冗長な文章にしても、同様に存在をしているのだけど、それ自身に意図はない。
彼女の実存は死んだ。それは、僕の中で、彼女が死んだからだ。その観点において、彼女はすでに存在しない。もちろん、個としての彼女はそこに相変わらず、周りに愛想を振りまいて、嘘と偽証で塗り固めた外見で存在しているのだが、僕の中で思う彼女は死んだのだ。ロカルタンが死んだように。
死んだという表現は素敵だ。
 失った。
 いなくなった。
 消失した。
どれも同じだ。
僕を型作っていた、僕に巣食っていた概念は消失し、新たな概念が生まれた。巨人の肩の上に立つように、もちろん、その概念は以前の僕から作られたものかもしれないが、親が子を産むように、その概念がひとつなぎなものなど思うことができるのだろうか。

彼女を生き返らせるためには会話しかない。それも、実りある会話しか彼女を生き返らせることはできない。変化したのは単純に僕か、僕の中にある意識だ。それに合致するように彼女を作ったが、それは本質とかけ離れていただけなのだ。

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