2018年1月2日火曜日

オリエント急行の殺人


アガサクリスティーの名作。不朽の名作。
山本やよい訳を読みました。1934年作。
2017年12月、映画化されたので、ではなく、「氷菓」という漫画を読んだことをきっかけにミステリーも一応読まなきゃいけないのか(義務感)と読みました。
実は、ミステリーはほとんど読んでない。
というのも、ミステリーには、奇抜なトリック、心理描写、叙述トリックなどがメインとなるという考えなので、自分の求める”普遍性”を有した名作はないだろうと思っているからだ。いや、いたからだ。
高校生時代には、東野圭吾を頻繁に愛読、大学時代には森博嗣の四季シリーズ、S&Mシリーズ、小鳥遊連無が素敵なVシリーズ、どれも、素敵な物語だったような気がする。
殺人があり、それに対する犯人がいて、犯行の動機・手段を推理する。その過程を示すものがミステリーと定義するならば、それを最も早く作成した著者にクレジットがおりる。
オリエント急行の結末は、現在としては、もう使い古されている。いや、使われているという表現の方が正しいと思うが。
その点においてこの作品は素晴らしい。
容疑者全てが犯人。
容疑者全てが犯人でない。
容疑者が犯人であるとともに被害者となり、被害者が犯人である(自殺)。
そのうち、機械が犯罪を起こす物語ができるだろう。
コンピュータによる犯罪。
動物を使役させての犯罪。 
もとから犯人がいなく被害者も存在しない犯罪。
問題は、その主題を綺麗に書き記すことができるか、どうすれば偶然が必然に変わるか。その点を考慮する必要がある。
オリエント急行は、伏線が根拠になっている。いつも空いているオリエント急行が混んでいるという理由。
単純に考えて、"集められたから”、ないしは"集まったから”のふた通りがあがる。
物事は単純に考えることが重要だ。
"To be or not to be, that's the question.". 
有名なシェイクスピアのハムレットのセリフだ。
情報のチャンク化。 
僕らも物事を考える時には、確実に二元論で考える。多くて三元論。
それは、AかAではないか。
オリエント急行の中で、エルキュール・ポアロも殺人事件の推定を「1時15分か」「それより前か」「それより後か」で区別していた。
こんなにも簡単な子供でもわかることを、実際のところ、ほとんどの人がしていないことが事実だ。
どんなに博識ぶった人でも、Aか、Bかと考えたりする。いやいや、Cもあるじゃん。ってことになる。そのため、ぬけが生じる。よりバカな人はAだ。Aに違いないと言うが。
そこで、基本に立ち返り、それかそれでないか、AかAではないか。
数学の包含関係を思い返して欲しい。AかBかCかと登場人物を増やせば増やすほど、この場合には、A、Aバー、B、Bバー、C、Cバー、AかつB、AかつBではない、BかつC、BかつCではない、CかつA、CかつAではない、AもしくはB、AでもBでもない、BもしくはC、BでもCでもない、CもしくはA、CでもAでもない、AかつBかつC、AかつBかつCではない、AでもBでもCでもないと、21通りも考えなければいけなくなる。なんて無謀なことだろう。だから、まずは、AかAではないかなのだ。
"集められた"理由としては、真犯人一人が他の人に罪をなすりつけるため、もちろん、連続殺人になる可能性もある。集められた人々が他人のふりをしている(ちなみに、この関連性を示すこともポアロの偉業だろう)ことが説明がつかない、集められたとしたら他人行儀になっている文章だと、それは作者の都合だから、ということは彼らは集められたにもかかわらず他人のふりをしている。そう考えると、なぜ?なぜ他人のふりをしているのか?となる。
その点で、すでに全ての人が関連しているということになってしまう。だから、初めから結末が予想されてしまう。
まぁ、それは、被害者以外の全員が犯人だという奇想天外な結末を作成した作品がオリエント急行以外にも存在するからだろう。だから、僕は知ってしまっているのだと思う。
そう、ゴールドバッハの予想のように、数学の定理のように、示されれば答えるのは簡単だからだ。

内面を重要視した推理方法はそもそもアガサ・クリスティーに特徴的なのだろうか。
ヨーロッパ文学たる所以なのか。

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