2017年12月24日日曜日

死の論証


残念なことに、いや、それを残念とするべきなのかはわからないが。
誰が死んでも、少しの間だけ、もっというと、誰かが僕を目視している間だけ、悲しむのだろうと思う。
親が死んでも。兄弟が死んでも。恩師が死んでも。親友が死んでも。
なぜなら、僕は今一人だからだ。
愛していた彼女は死んだも同然だ。なんだったら死んでくれていた方が嬉しい。そう感じるのは僕が卑劣で下劣な人間だからなのか。
しかし、彼女がこの世の中にこれから長い間、僕の生命が続く間生存していても、僕とは平行線をたどるだけだろう。それならまだいいが、交わった時に心が惑わされるのはどうしても嫌だということ。だから、彼女の存在がなくなってほしいと思う。そうするには死ぬしかない。
会わなければ、やはり死んだのと同じだ。
とは言っても、会わなくなる可能性がゼロになることはほとんどない。だから、死ぬという現象が必要だということになる。
父親は死んだ。現実には生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。
もしも訃報が届いたらどうするだろうか。誰かが見ている前でははらりと涙を流すかもしれない、それは偽善だ。なんとも思ってなくても、無感傷で哀惜の念が浮かばなくても、そうすることは偽善だ。僕はおそらくその気持ちでいっぱいになるだろう。なぜなら、父親は死んでいるも同義だからだ。
彼が今後僕に与える影響はない。
影響を与えうる個体について、死という概念は当てはまらないかもしれない。
死んでいても、存在しなくても、それが自分になんらかの、害悪か善か知らないが、影響を与えるのであれば、それは死んでいるのだろうか。
存在しているのだろうか、存在とはなんなのか。
存在していないと考えていたものが存在しうるのか。コーヒーの味。耳に残る説教。香水の匂い。残存する感覚はそれらの発生源の存在を抹消しえない。となると、それらの存在はあたかも現在も存在しているのであり、死んでいることはない。
逆説的に、死んでいる存在は死ななくなり、生きている存在は常に死に続けることになる。つまり、変化がなく死んでいる存在は、変化をきたさないという点において、永遠に存在し続け、死ぬことがなくなり、生きている存在は常に変化をするという点において、瞬く間に死に絶え、以前の記憶が抹消、上書きされ、そして新たに生み出される。つまり死に続ける。
たまに顔を合わせた方が、変化の違いに気づくのは、その存在が彼の中で生きていて、瞬く間に上書きされたからだろうと思う。

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